千手山弘法寺踟供養とは
岡山県瀬戸内市牛窓町に弘法寺という寺院がある。この寺の歴史は深く、遡ると平安時代の初期、空海が方三丈の堂を健立し、千手観音を安置したところまで話は進む。
本堂の周囲は落雷による焼失を繰り返し、現在では、遍明院が一帯を管理しているという。波乱万丈の歴史深いこの地にも民俗芸能があり、極楽住生を厳かに再現した日本三大練供養の一つと聞き弘法寺へ駆けつけた。
死後にあの世へ行く事を住生という。
極楽浄土を表現した祭とは、どれほど厳粛なものか、胸を高鳴らせて現地へ出向いたが、想像を上回る展開に直面した。なんと主役は仏の着ぐるみなのである。
5月5日、夏の気配が間近にせまる晴天の日だった。桜の木は淡いピンク色から濡葉色へと変わり始めている。
被り仏と練供養の起源
古くは迎講と呼ばれた練供養、始まりは比叡山の宗教劇だと聞いた。極楽浄土へ生まれ変わる手引書「住生要集」を元とし、阿弥陀様と多数の仮面をつけた菩薩様が登場する。様々な寺で阿弥陀様の大きさを競い、少しでも人目を引こうと発展を続け、今日のかたちとなったそうだ。
弘法寺にある阿弥陀如来立像は、2メートルほどの大きさで、鎌倉時代のものとされている。幾度の消失を繰り返し、何度も再建され現在に至るこの地で、木造の阿弥陀如来様が変わらず残っていることに驚き感動した。細部に目をやるとお腹のあたりに覗き穴がある。この重厚な木彫りを人が被るというから驚愕だ。
住職さんは「今は皆年齢が上がり、被り手の両側に支えとなる人が立ちますが、昔は一人で被っていたこともあります」と話す。
寺らしい祭りだと思った。ユニークさの裏側には深い歴史と、忍耐が潜んでいる。
当日の様子
午後2時になると、読経に合わせて僧侶と稚児が普賢堂内で儀式を始める。
読み上げられるのは理趣三昧という密教に基づく法要だ。詳しい話に触れると、経一つで深みにはまり、仏教の奥深さや複雑さに直面する。難しい話はさておき、実際現地で読経を耳にすると、低い肉声が何重にもなり立体的になっていく華麗な曲節に夢中になった。観客は本堂に入ることはできないが、弘法寺一帯が清められていくように、野外にも声色は響き渡っていく。
儀式が終わると、僧侶と稚児は本堂へ向かい、面をつけた信徒達と合流。その後、行列を作り中将姫が待つ多宝塔へと出発する。行列は2列。先頭は警護役の棒突き、その次に花束を手にした花稚児、法螺貝や銅鑼を持った楽団、僧侶稚児の後ろに天童、地蔵、観音と続く。
面は全部で10個あり、金色をした菩薩面が6つ、比丘面と呼ばれる地蔵が2つ、天童面が2つ、これらの面も鎌倉時代から受け継がれていると聞いた。既に主役となる阿弥陀如来が残っていることに心を打たれているが、それに伴う面も欠けることなく残っていると知り感激した。宗教劇が一つの文化として大切に受け継がれてきた証拠を目の当たりにしたような気がして、行列が神々しく感じる。
多宝塔へ向かう道のりは現世と来世を結ぶ道とされるそうだ。静かにゆっくりと歩み続ける行列を見ていると、夢の世界に居合わせたような不思議な気持ちになる。
行列が多宝塔へ到着すると、金面の観音様が前方にせり出て、中将姫をすくい取る儀式を始める。表観音、裏観音と呼ばれる2名がゆっくり手を合わせて同じ所作を繰り返していく。
平安時代、仏の教えが廃れ世の中が乱れた不安から、来世での安穏を願い浄土教が広まった。念仏を唱え功徳を積んだものだけが死にゆくとき、阿弥陀如来や菩薩達が枕元に迎えに来て極楽浄土へ導いてくれるという。
手のひらサイズの小さな中将姫像が観音様の手に渡るとき、救いの手が差しのべられた瞬間のように感じた。初夏の日差しに照らされ、神々しく光を放ちながら、行列は常行堂へ向かう。
いよいよ、迎え仏である阿弥陀如来様の登場である。
厳かな空気の中、なんとも奇妙な阿弥陀如来の着ぐるみが現れ、緊張の糸が緩む。極楽浄土に笑顔が溢れるかのように、ユーモアのある仏の姿に、観客からは笑みがこぼれた。
極楽浄土を表現した、弘法寺の練供養は観客も引き込む参加型の宗教劇だ、と嬉しい気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。
自らも含め人は皆大袈裟で、文化遺産や仏教の厳粛さばかりに目がいってしまう。でも、根本は、苦しい世の中に少しでも笑顔を増やして楽しくしたいという、前向きで優しい気持ちから始まっているのではないかと、この祭りを通して実感した。
雷に打たれてばかりの小高い山上に位置する弘法寺、去り際に目にした夕焼けは、清々しいほど鮮やかな茜色だった。