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「東北三大祭り」の起源はすべて「七夕」にある!?青森ねぶた祭・秋田竿燈まつり・仙台七夕まつりの歴史を徹底解説!

2022/8/3
2024/3/8
「東北三大祭り」の起源はすべて「七夕」にある!?青森ねぶた祭・秋田竿燈まつり・仙台七夕まつりの歴史を徹底解説!

東北三大祭りと称される、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、仙台七夕まつり。祭りの規模や絢爛豪華さ、訪れる観光客数の多さや人気度からしても納得のラインナップです。3つとも8月の1〜2週目と同時期に行われるため、旅行会社が主催する「東北三大祭りツアー」ですべてをまとめて楽しむ人も少なくありません。

3つのお祭りは見た目も内容もまったく異なります。しかし、実は起源がみな同じということをご存じでしょうか。東北三大祭りのルーツは、実は日本の農耕文化に根ざした固有の「七夕の行事」だったといわれているのです。
これは一体どういうことでしょうか?この記事で、東北三大祭りの起源と、発展の歴史について紐解いていきましょう。

日本固有の七夕の行事とは?

七夕といえば、「織姫と彦星が年に一度だけ会える日」と認識している人も多いはず。このストーリーは奈良時代頃に中国から伝わりました。
しかしかつての日本、特に農村部での七夕の捉え方は現代とはかなり違っていたようです。理解するカギは「お盆との関係」と「農耕文化」です。

お盆との関係から考える

私たちが現在使っている新暦が採用される1872年(明治5年)以前、七夕はずっと旧暦の7月7日のことでした。旧暦は新暦にあてはめると1か月くらい遅れ、例えば2022年だと8月4日にあたります。お盆も旧暦7月15日の行事で、新暦では7月7日が七夕、8月15日がお盆と分かれている地域が多いのですが、実は連続した行事だったのです。

七夕は、お盆に帰ってくるご先祖様の霊をお迎えする前に準備をする日でした。具体的には、川や海に入って心身の穢れを払って水に流す、禊(みそぎ)を行っていたと考えられています。

旧暦の7月7日頃は、稲が開花期に入る時期でもありました。この時期の風水害や病虫害は秋の収穫に大きな影響を及ぼします。そのため、秋の豊作を祈る行事は夏の時期に多く行われていたようです。
田の神はご先祖様の霊(祖霊)が変化したものであると信じられていたため、祖霊を迎える準備や祖霊への祈りは、稲作をして暮らす人々の生活に密着した非常に重要なものでした。

「虫送り」といって、稲についた害虫を村の外まで追い払い、秋の豊作を祈る行事も昭和30年代くらいまで各地で行われ、七夕行事の一つとして行っている地域もありました。このように、中国伝来の七夕伝説が広まる前あるいは並行して、日本固有の七夕行事は行われていたと考えられます。

こちらは仙台市歴史民俗資料館によるツイートですが、東北地方を含め全国各地には、七夕にワラで馬をかたどった「七夕馬」を作る風習がつたわっています。

ご先祖様を迎えにいき送っていくためにキュウリやなすで作る「精霊馬」にちょっと見た目が似ていますが、七夕馬もお盆の前の先祖迎えや穀物の豊作祈願の行事用に作られていました。
これを見ると七夕はお盆の前で、お盆と密接な関係にあったというのが理解しやすいですね。

健康で農作業に励むため「眠気」を流し去る

農作業は、暑い夏の日であっても休むことはできません。そのため、暑さとともに襲いくる眠気は大敵でした。ここでいう眠気には、頭がボーッとしたり意識が朦朧としたり、現代では科学的に熱中症だと分かっているような状態も含んでいたと思われます。同時に夏は疫病が流行りやすい季節であり、それらを払って寄せ付けないようにするためにも、海や川での禊はとても重要な行事でした。

やがて自身が禊をする代わりに、形代(かたしろ)としてワラ人形や人の形に切りぬいた紙に眠気を託し、疫病退散の願いも込めて水に流すようになります。その後、短冊をつけた笹竹や、火をともした灯籠を流すようになりました。これが「眠り流し」で、ねぶり流し、ねむた流しなど地域ごとの別名はあれど、東北各地で行われるようになったのです。

紙とローソクでできた灯籠を流すのは、お盆の最終日に先祖の精霊送りのため火をともして水に流す「灯籠流し」の風習と合体したものとも考えられていますが、いずれにしろ眠り流しは、重要な七夕行事として定着していきます。

眠気や疫病を遠ざけることは、科学や医療が未発達な時代においては切迫した願いであり、日々の糧となる農作業に直結する死活問題でもありました。それだけに眠り流しには特別な意味が込められ、七夕行事として大切に守り受け継がれていったといえるでしょう。

東北三大祭り、それぞれの発展の歴史

東北三大祭りのルーツとなっている、日本固有の七夕行事について紹介しました。しかし、その後3つの祭りはそれぞれ異なる発展を遂げ、現在のように三者三様の魅力あふれる姿に進化しています。

ここからは、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、仙台七夕まつりがどのような歴史を辿ったか、解説していきましょう。

◎青森ねぶた祭

青森ねぶた祭の大きな特徴は、圧倒的な存在感を誇る巨大灯籠・ねぶたが登場することです。ねぶたの高さは最大5m、幅最大9mにもなり、職人たちが技術を注ぐ超大作です。

ねぶた祭の起源で通説なのは先述した「眠り流し」で、「ねぶた」は「眠た」や「ねむた流し」が変化したという説が有力です。また、青森県内だけでも複数地域でねぶた祭が行われますが、代表的な青森市では「ねぶた」、弘前市では「ねぷた」と呼ばれます。
そこにどんな違いがあるのか、または無いのかについては下記の記事で詳しく解説していますので、ぜひあわせてご覧ください。

眠り流しがルーツということで、眠気や病魔を祓い、穢れを川や海に流す「灯籠流し」がねぶた祭の原形となっています。現在のねぶたは巨大すぎて川に流すことはできませんが、ねぶたが街の中を練り歩いたあとに行われる「海上運行」は、眠り流しの名残ともいわれています。

 

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かつてのねぶたはもっと小型で、棒の先に取り付けたりして一人でも担げるねぶただったそうですが、江戸時代ごろから巨大化していき、戦後に現在の巨大山車ねぶたが作られるようになりました。ねぶたはなぜ巨大化したのでしょうか?

有名なのは、豊臣秀吉にまつわるエピソードです。
秀吉がお盆の時期に、諸侯たちに出し物を行うよう命じました。当時「成り上がりの田舎者」と蔑まれていたという弘前藩の初代藩主・津軽為信は、今こそ意地と誇りを見せようと地元津軽で大灯籠を作らせ、京の都を練り歩かせます。「津軽の大灯籠」と称されたこの出し物は、秀吉の目にもとまり、為信の出世につながりました。

主君の出世を津軽の人々も喜び、巨大山車灯籠は栄誉の象徴としてつくられ続けたそうです。そしてそれが今日のねぶた祭と巨大なねぶたに繋がっているといわれています。

◎秋田竿燈まつり

竿燈は全体を稲穂に、連なる提灯が米俵に見立てられており、五穀豊穣を祈願する目的があります。東北三大祭りの中では、最も稲作文化とのつながりが顕著に表れているといえるでしょう。

竿燈まつりに関しての記載がある、現存するもっとも古い文献は、江戸時代中期、寛政元年(1789年)の国学者・津村淙庵(つむらそうあん)の紀行文「雪の降る道」だそうです。このときすでに秋田独自の風俗として伝えられており、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった竿燈の原型が記されているのだとか。

また、幕府御用学者、屋代弘賢(やしろひろかた)が、諸国に風俗に関する質問状を送って答えを求めた江戸末期の「風俗問状答」にも、巨大な竿燈を持ち上げる差し手が描かれています。
このことから、江戸時代には竿燈まつりのシンボルである「巨大な竿燈」が定着していたことがわかりますね。

竿燈まつりの起源も「眠り流し」にあったとされ、秋田市にある民俗芸能伝承館の愛称も「ねぶり流し館」といいます。

藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しでは、提灯ではなく、笹竹や合歓木(ねむのき)に願い事を書いた短冊を飾っていたといわれています。まるで現在の七夕の笹飾りを彷彿とさせますね。

それが、宝暦年間(1751年~1764年)の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事に発展したものといわれています。その発展の主役となったのは町人たち。現在の千秋公園の場所にあった久保田城の外堀の西側、外町(とまち)という地域に暮らしていた商人や職人たちが、力比べをするかたちで始まったのが現在の竿燈まつりの発祥になったと考えられています。

◎仙台七夕まつり

現在は一大観光イベントである仙台七夕まつりですが、特に豪華になっていったのは、観光化を意識した昭和に入ってからといわれます。それ以前は飾りもだいぶ素朴で、各家庭で笹竹を飾って祝っていたようです。

ここで少し疑問に思う方もいるかもしれませんね。
青森ねぶた祭や秋田竿燈まつりは、それぞれ日本固有の七夕行事のルーツが色濃く感じられます。しかし仙台七夕まつりは、願い事を込めた色とりどりの七夕飾りが風に揺れる、現代の全国で行われる七夕のイメージにかなり近いものになっています。そこにはどんな歴史があるのでしょうか。

仙台七夕まつりは、初代藩主・伊達政宗が「子女の技芸が上達するように」と七夕を奨励したことが始まりとなっています。現代の誰もがイメージする七夕は、中国から奈良時代に、織姫と彦星の伝説と「乞巧奠(きっこうでん)」という行事が伝えられたことが発祥です。

乞巧奠は機織りや裁縫が上達することを願う祭りで、宮中行事として発展した後に民間に浸透しました。すでに江戸では願い事を短冊にしたため、笹竹に飾るという行事も広く行われており、この江戸風の七夕を伊達政宗が取り入れて、領地を盛り上げる目的で盛大に七夕行事を行っていたようです。

東北地方は、平安時代後期に平泉を中心に奥州藤原氏が発展しますが、仙台周辺は歴史の表舞台に登場しない時代が続きます。中央政権の支配も強く及ばず、独自の文化を醸成してきました。その反面、外様大名である伊達政宗は、仙台藩を江戸や京にも負けない文化都市として発展させるため、七夕行事を導入したのかもしれませんね。

先述の「七夕馬」の風習が見られるように、藩政以前の仙台で日本の農耕文化に根ざした眠り流しのような七夕行事が行われていたことは容易に推測できます。しかし、現在の祭りにつながる400年以上の歴史の積み重ねで目立たなくなっているのかもしれません。

ただ、仙台七夕まつりでも、かつては笹飾りを最後に川に流していたということですから、そこに眠り流しと同一のルーツを見ることができます。

東北三大祭り発展の共通点は?

祭りの発展の裏側には、当時の人々の想いを感じることができます。
稲作を中心とした農耕を営む人々の先祖の霊を敬う信仰心や健康への願いから行事や祭りが生まれ、大名たちが藩の発展を願う気持ちや力をつけた町人たちの手によって祭りが大規模化し、絢爛豪華な一大イベントとして発展していきました。

また、関東以南とは異なる歴史を歩んできた東北エリアを、江戸時代以降、統治・整備するにあたっては、江戸や京の文化・風俗は大いに参考にされたことでしょう。大名たちやそこに住む人々には、ちょっとした対抗意識もあったかもしれません。
ねぶたや竿燈が巨大化していったのも、「京都の祇園祭では家よりも大きな山車が登場するらしい」といった噂を聞いたからかもしれませんね。

大規模な祭りには、民衆の心を結束させる効果もあったようです。平和な時代に力を持て余した武士のガス抜きの機会であったり、万が一の災害のときに団結して避難できるよう防災訓練の一環であったともいわれます。
政治の中心地から離れた東北エリアでは、こういった要素を積極的に実践して、独自の強靭なコミュニティの構築に祭りが一役買っていたのかもしれません。

おわりに

東北三大祭りのルーツがみな「日本固有の七夕行事」にあるということについて、その七夕行事と、どう発展して現在のように三者三様の祭りになっていったのか歴史を辿ってみてきました。
そもそも、仙台の七夕まつりと他の2つの祭りの開催時期がなぜ近いのだろう?と思っていた方もいるでしょうし、なぜ3つとも七夕の行事なのか?と思っていた方もいると思いますが、日本における七夕行事の意味を理解すれば、納得できたのではないでしょうか。

同じ七夕行事から端を発していても、お盆との結びつきを強く感じられる青森ねぶた祭、稲作文化の色が顕著な秋田竿燈まつり、中国由来で定着した七夕文化を取り入れて華麗に発展していった仙台七夕まつり。それぞれがまったく別のかたちに変わっていけたことを思うと、逆に日本の七夕行事がとても間口の広いものだったともいえるかもしれません。

祭りの起源を知り、それを発展させてきた先人たちの思いや地域性に思いを馳せることで、より一層「東北三大祭り」が楽しめそうですね!

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