例年、会津のシンボルである鶴ヶ城のほか、市内各所で古式ゆかしい舞を披露する「彼岸獅子」。今年2023年も3月19日(日)と3月21日(火・祝)に行われます。
ここからは昨年の現地の様子と、「彼岸獅子が地域の誇りとなっているのはなぜか?」を考察したレポートをお届けします。
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福島県会津地域には、3月のお彼岸の時期に行われる「彼岸獅子」がある。このような名前が付けられた獅子舞は、日本全国でも珍しい。なぜお彼岸に舞うのかという背景や、その異形の姿に惹かれて、この芸能について少し調べてみた。
春のお彼岸と言えば先祖供養の意味があり、雪解けと生命の息吹、喜びを感じる季節であることは確かだ。江戸時代の寛永年間(1624~43年)より伝承されてきた貴重な舞いという。ただ、なぜこのお彼岸の七日間を中心として、会津地域に獅子舞が根付いたのかは定かではなかった。
一方で、様々な文献を読んでいて「獅子舞は地域の誇りである」という意識を強く感じた。
武士たちのお墨付きをもらった等の様々なエピソードが残されているが、なぜこれほどまで地域の方々は獅子舞に対して思い入れがあるのだろう?獅子舞と民俗芸能のこれからを考えるうえで、何か重要な手がかりになるかもしれないという思いから、現地に伺ってきた。
春分の日に彼岸獅子に密着!
3月21日の10時半。彼岸獅子はまず会津若松市の鶴ヶ城から始まった。鶴ヶ城といえば、観光名所であり、白くそびえ立つ姿が堂々として美しい。子供から大人まで様々な年齢層の人々が観光に来ており、とても賑わっていた。
演舞は本丸の脇で行われた。拝見していると、まさに太鼓を叩く三匹獅子舞の形態で、頭には鳥の羽が付けられている。首の振り方がカクカクとしており、これは鳥の動きだと思った。鶏舞という芸能があるが、あれにも近い印象だ。
「この地域の獅子舞は、鶏と間接的に何らかの関係性があるのではないか」と直感的に思ったが、さてどうだろうか。演目は4つで、庭入、弊舞、弓舞、袖舞が披露された。
弊舞では弊舞小僧という役が登場する。昔は子供がやっており、この役に選ばれることが大変な名誉であったという。15年前より子供の人手が不足していて、大人がその代役を演じているとのこと。獅子を真似る様に踊るその姿に注目だ。
弓舞では、獅子が弓をくぐろうとしてもなかなか潜ることができず、その周辺をウロウロしている様子が演じられた。
最後にはぴょんぴょんと飛び跳ね、弓をくぐった瞬間は大きな歓声が上がる。最大の見せ場にもなった。
最後に、軽く演舞をして終了!合計30分ほどの演舞である。
途中、雨が降ってきたが、不思議と演舞の途中から晴れ間が見えてきた。最後に鶴ヶ城をバックに写真を撮った。
その後は、七日町通り方面に移動して、阿弥陀寺でも同様の演目が12時から行われた。荘厳な雰囲気での演舞もまた味わい深く感じられる。
これも30分ほどの演舞で終了。12時半になり「さあ、取材が終わったからお昼でも食べに行こうか」と思っていたら、なんと、まだ演舞をしているではないか!予想外な展開だったが、少し獅子について歩いてみることにした。
獅子たちは七日町通りのお店を門付けして巡っていた。お城やお寺などの会場では人を集めて演舞していたが、この時間帯からは七日町通りのお店を順番に回り始めたのだ。太鼓と笛の音がストリートに響き渡っており、その音色が心地よい。
お店の前の歩道で門付けする場合がある一方で、お店の中に入って行う場合もあった。お店の人と獅子との距離の近さも感じる。最後までは見られなかったものの、獅子の担い手たちも「この後食事をしてから、16時半くらいまで町中を巡る予定です」とお話しされていた。
祭りを多面的に継承する
今回の彼岸獅子を振り返ってみると、午前と午後で大きく違っていた。まず午前中(12時半まで)は、地元民や観光客に囲まれる様な形で演舞を行う。一方で、午後は観客がほとんどいない中、地域のお店を門付けするという流れだった。
見せ場を作る一方で、地域の家を一軒一軒丁寧に回っていくという2つの獅子舞のあり方が見えてきて興味深い。このように獅子舞を多面的に継承していくことで、獅子舞が地域に根付き、それが誇りにも繋がっているように思えた。
町同士の喧嘩を平和的に解決!
歴史を遡ってみれば、昔から「獅子舞は地域の誇りである」という意識は強かったのだろう。小島一男氏の著書『会津彼岸獅子』(昭和48年6月)を参考に考察してみたい。
まず、江戸時代に獅子舞の担い手は農民の長男だったが、下級藩士たちの支援もあった。それゆえ、担い手たちのプライドも高かったようで、祭りの日に街に出ると隣町の獅子との喧嘩も絶えなかったようだ。
その喧嘩の始まりは、弓舞の時に弓を立ててあるのが見える位置に獅子が来たことが合図となり、引き起こされる場合が多かった。弓舞というのは獅子が弓の周囲を舞いながら最終的には弓を潜るのが最大の見せ場となるのだが、「弓を潜るのは私達だ!」と主張するような意味もあったのかもしれない。
また、明治元年の会津戦争の際に、城主・松平容保の家老である山川大蔵が、田島方面の守備に行っていたのを急遽呼び戻された際に、小松獅子を連れて「通り囃子」を奏し、あっけにとられている敵兵たちの攻撃を避けることができたという話がある。
つまり、会津地方の獅子は、争い事を平和的に避けるような役割を担っていたということもできる。ちなみに民俗芸能が藩境に集中したのは、軍事的な争いを平和的に解決するためであったという話もあり、それは以前、岩手県北上市の民俗芸能を取材した際に伺った話である(参考記事はこちら)。
彼岸獅子は会津地域の誇るべき存在
彼岸獅子は農民によって受け継がれて、武士の後ろ盾もあり、誇るべき獅子舞集団へと成長した。その中で、各町の獅子舞のプライドも高く、武士同士の喧嘩もあったが、それは平和的に解決する手段にもなっていた。
今ではその様な喧嘩の光景は見られないが、観光客も多数見物に訪れる一方で、地元民にも愛される獅子となっている。形は違えど、誇るべき存在。その様な姿が、会津の彼岸獅子から感じられた。
3月21日の彼岸獅子の映像はこちらからご覧ください。
<参考文献>
・会北史談会『会北史談』令和元年6月
・会津若松市『会津の民俗芸能』平成11年12月
・小島一男『会津彼岸獅子』昭和48年6月