例年8月15日のお盆の夜、愛知県新城市の長篠・設楽原決戦場跡にある「信玄塚」で行われる「火おんどり」という行事があります。
信玄塚とは合戦での戦死者を葬った塚のこと。合戦後間もなくこの塚から大量の蜂が発生し、苦しめられた村人たちが、戦死した武田軍の亡霊だと考え、慰めるため、長さ2~3m、直径80cmほどの松明を燃やして信玄塚で供養したのがこの祭りの始まりだと言われています。村の男たちが大きな松明を抱え、鉦や太鼓の囃子にのって、8の字を描くように松明を振り回す様子は大迫力です。
長篠・設楽原決戦を戦ったのは織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍ですが、なぜ「信玄塚」と呼ぶのか。そもそも長篠・設楽原合戦とはどんな戦いだったのか?先日、『戦国大変 決断を迫られた武将たち』(日本ビジネスプレス)を上梓した歴史家の乃至政彦さんに伺いました。
※2023年の「火おんどり」は開催中止が決定し、地元関係者のみで戦没者供養が行われます。
信玄塚の「火おんどり」
例年8月15日に、長篠合戦の戦死者を慰霊するため行われているという不思議な祭りが、長篠合戦古戦場跡にあたる愛知県新城市の「信玄塚」で催されている。
長篠合戦とは、天正3年(1575)5月21日に、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍勢を打ち破った戦いで、歴史の教科書や参考書で、連合軍の鉄砲隊が武田軍の騎馬隊に一斉射撃で応戦して勝利したと紹介されているのを読んだ記憶のある読者も多いだろう。
祭りの起源としては、事実かどうか不明だが、現地の村人たちがここで亡くなった武田兵を弔ったところ、蜂が大量発生して難儀したため、これを武田兵のメッセージと受け止めて、合戦から60日目にあたる7月21日に大法会を始めたのが、火おんどり(火踊)の風習になったという。
ちなみにここで敗れたのは武田信玄ではなく、その死後に跡目を継いだ武田勝頼であるが、織田信長が「あの信玄に勝てたぞ」ということを宣言するためにそう名付けたのだという。実際のところ信長は生前の信玄に勝てた事実はないが、その鬱憤をやっと晴らせたとの思いが大きかったのだろう。
長篠合戦とはどういう戦いだったのか?
長篠合戦については、多くの説明を要しないかもしれないが、簡単に触れておきたい。
この地域を治める徳川家康は、全国でも屈指の強さを誇る武田勝頼に攻められて、とても困っていた。
家康はひとりでは勝ち目がないと思い、岐阜の織田信長に援軍を求めていた。武田のライバルとされる上杉謙信も、一緒に攻めて武田を滅ぼしましょうと協力を約束していた。
天正2年(1574)、このため織田・徳川・上杉が三方向から武田領の信濃に攻め込む段取りが整えられた。ところが織田領の畿内で兵乱が起こった。慌てた信長は畿内の平定を重視して、約束をドタキャンすることになった。
その時、すでに関東まで出馬して、信濃入り寸前にあった謙信は越後に帰国。「話が違うではないか」と信長に強く抗議した。
そこで謙信は、畿内を取られることよりも勝頼を放置する方が危険だと伝えたらしく、信長は「畿内を疎かにしてでも武田攻めに専念するようにとのこと、ごもっともです。承りました」と低姿勢な返事を送っている。どうやら信長は、同盟国である謙信のいうことを本気で信じたらしく、とにかく勝頼を何とかしないと、我々は滅ぼされてしまうと真剣に考え始めた。
その後、謙信は越中方面の戦線に引っ張られて信濃に向かうことができなくなっていたが、信長は勝頼を決戦でやっつけるしかないと考えて、入念な作戦を立てた。
第一の手は、陽動である。
織田信長の罠
4月6日、信長は10万以上の大軍を動員して、畿内摂津三好康長と大坂本願寺の顕如を攻めた。10万というのは、織田領の将兵のほとんどであろう。
これを見た勝頼は、絶好の機会とばかりに大坂を助けるべく決着をつけると宣言して三河に侵攻した。信長や謙信が動けないのだから、いつやるか今でしょとばかりに徳川領を攻めたのだ。
しかしこれは信長の陽動だった。勝頼が動くより前に、畿内から大軍を引き上げさせ、三河進軍の準備を整え始めたのだ。しかし武田軍は織田軍が畿内を空っぽにしたことを知らない。
信長は、大軍をそのまま勝頼との決戦に突入するよう、罠を仕掛けたのである。
武田軍は三河侵攻を順調に進めていたが、長篠城だけはなかなか落とせなかった。信長と家康の指示があったらしく、鉄砲と兵糧を充分に揃えていたからだ。勝頼は長篠を人質のようにして、取り囲み、織田・徳川連合軍が援軍に出てくるのを待っていた。
信長と家康を相手に主導権を握っているつもりであったが、長篠城が囮になっていることで、逆に自分たちが嵌められていることに気づいてはいなかった。
織田・徳川連合軍と武田軍が今でいう設楽原に迫ってくる。武田軍は、信玄塚をメインに南北に布陣を広げた。
連合軍は、対する高松山の前面に出て、やはり南北に布陣を広げた。ただし連合軍はここで即席の柵を構築した。いわゆる馬防ぎの柵である。
勝頼は、連合軍の動きが弱腰だと見て、これなら楽勝できると思ったらしい。駿河にいる家臣に宛てて「信長と家康が長篠の援軍に出てきて、何事もなく対陣している。敵はなす術を失って切羽詰まっているようだ。野戦を仕掛けて決着をつけてやろう」と強気の書状を送っている。
しかし、信長は大軍を高松山の背後に隠していた。
長篠合戦の決着
武田方の記録によると、初めのうち合戦はあまり被害が出ることなく長時間にわたったという。連合軍は柵の前で小競り合いを仕掛け、少しでも危うくなると柵の後ろに隠れた。
見るからに無策な動きである。
しかし武田軍は長期戦を避けたいと考えていた。そこで短期決着をつけるべく、別働隊を用意させて高松山の背後に回らせようとした。本隊がこれまでの戦い通りに敵軍を引きつけて、その間に挟撃作戦を仕掛けようというのである。軍事用語でいうところの「鉄床戦術」であった。
ところがこれが大失敗になった。高松山の背後に織田の鉄砲隊が大量に隠れていたのだ。足軽と鉄砲の数は不明だが、武田方の記録では、設楽原で連合軍1万5千と武田軍1万5千が交戦していたようだが、背後には7万以上の人数がいたと見られ、その人数を10万と記している。
信長は畿内攻めに動員した兵を、根こそぎ連れてきていたのだ。およそ戦争のセオリーを外れた運用だった。しかもそこには領国内から集められるだけの鉄砲が揃っていたのだから、たまったものではない。
この合戦の詳細は拙著『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書、2023年)に書いたので、そちらを参考にしてもらいたい。
ここに武田軍は別働隊を続々と壊滅させられ、事態に驚いた本隊も総崩れを起こした。このような悲惨な合戦だったのだから、現地の村人たちが憎き敵であったはずの武田兵の供養に熱心だったというのも、あながち無理のない話である。
長篠合戦それとも長篠設楽原合戦?
ちなみに長篠合戦には、「設楽原合戦」「有海原合戦」「長篠設楽原合戦」など様々な呼び名がある。
もともとの呼び名は、「長篠合戦」である。だが、決勝会戦としての主戦場は明らかに長篠ではない。そこで主戦場であった「設楽原合戦」または「長篠・設楽原合戦」と呼ぶのが適切ではないかとする意見が表れた。
ただし当時の地名に「設楽原」の呼び名は見えず、現代の地名を積極的に導入する呼称が適切なのか、議論がある。
なぜ「長篠合戦」と呼ばれているかというと、武田方の記録である『甲陽軍鑑』が「信長、長篠合戦勝利の威をもって」と、これを「長篠合戦」の呼び名で認識しているからだ。
一次史料においても、合戦直後に連合軍の勝利を聞いた謙信が家康に宛てた書状で、「長篠において甲衆(武田軍)と一戦を遂げられ」と、この戦闘を「長篠」を主軸とする戦争と考えていた事実がある。
こうした事情を踏まえて、「火おんどり」に触れると、感慨深さが増すものと思う。