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織田信長と「ぎふ信長まつり」~なぜ信長は比叡山を焼き討ちしたのか~

2022/11/1
2023/8/11
織田信長と「ぎふ信長まつり」~なぜ信長は比叡山を焼き討ちしたのか~

岐阜のまちづくりに貢献した織田信長を称える祭り「ぎふ信長まつり」。1953年(昭和28)の春、信長の「稲葉山入城四百年」を記念し、伊奈波神社の例大祭「岐阜まつり」に花を添える形で行われた武者行列が始まりです。このとき披露されたのが、信長をはじめ、十数人の騎馬武者に鉄砲隊など、200余人による絢爛豪華な行列でした。

その4年後、秋まつりとしての「ぎふ信長まつり」が誕生。3年ぶりに11月5日と6日に開催される今年は、映画「THE LEGEND & BUTTERFLY」(2023年1月27日(金)公開予定)の公開を記念し、織田信長役として木村拓哉さん、出演者のひとりである伊藤英明さんも参加が決定。そんな信長について、歴史家・乃至政彦さんに伺う3回シリーズの最終回をお届けします。

第1回、第2回の記事はこちらです。


織田信長と僧侶の処刑

岐阜駅前にある織田信長像 写真/フォトライブラリー

織田信長は、正義を愛する気持ちが強く、虚言や不正を心底から嫌悪した。潔癖な性格だったのである。今回はそんな信長の気質を示す逸話の数々を紹介しよう。

信長がまだ若い頃、重病に陥った父・信秀の回復を僧侶たちに依頼した(ルイス・フロイス『日本史』第32章)。僧侶たちは、信長に「父は病気から回復するであろうか」と訊ねられ、「回復するであろう」と保障した。僧侶たちにすれば、とりあえず信長の不安を取り除いてやりたかったのだろう。

ところがその数日後、信秀は亡くなった。

すると信長は激怒して、僧侶たちを罰することにした。

屈強な武士たちに命じて彼らを寺に閉じ込めるなり、「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたな」と言い渡した。

信長には、僧侶たちの申し開きを聞く様子などない。しかも外から戸を閉められて、脱出することもできない。信長は続けていう。

「今度は自らの生命が保たれるよう、より一層念を入れて、そこの仏像に祈ってみせよ」

そして、武士たちに弓矢を放たせ、そのうち何人かを射殺してしまったのである。

助かった僧侶もいたようだが、理不尽な話である。だが、信長にすれば、いい加減な迷信だけを根拠にエビデンスもなく人の命を保障しておきながら、結局それが虚偽に終わっても何ら反省するところがない者たちが社会的に高い地位をもって伝統的に保護されていることこそ理不尽に思えたのだろう。

比叡山焼き討ち

比叡山延暦寺 写真/フォトライブラリー

また、織田信長といえば、比叡山が有名である。比叡山の僧兵たちは信長と敵対する朝倉義景・浅井長政に味方して、織田軍を攻撃した。このため、信長が信頼する部将・森可成(よしなり)が戦死する羽目になった。

信長は朝倉・浅井を討伐したかったので、比叡山の僧兵たちに「信長に味方すれば、もとの領土をすべて保障する。あなたたちが失った領土も返すようにする」と伝え、「義理があってどうしても味方できないならせめて中立になってほしい」と懇請した。

ところが僧兵たちは信長の願いを無視して、朝倉・浅井軍の保護と支援をやめなかった。

これが許せなかったのだろう。信長は全軍を集めて、比叡山近くの坂本を焼き払った。すると僧兵たちは大量の黄金を信長の陣地に送って「どうか怒りをお鎮めください」と機嫌伺いを始めた。これに対して信長は「私は黄金が欲しいわけではない。貴僧らの罪を罰することを欲するのみである」と、これを突き返して、比叡山を取り囲んだ。

信長は、彼らが「天道の恐をも顧みず、婬乱・魚鳥を服用、金銀賄に耽り」とその本義から逸脱する振る舞いを非難して、兵たちを進軍させた。

実のところ比叡山に、まともな建築物はほとんど残っていなかった。昔から打ち続く戦争のため大半の宗教施設を失っていたのである。フロイスの記録によれば、「三千八百の僧院は其数減じて四百余」しか残っていなかったという。今そこにある施設はすでに大元の約90%が失われていたのだ。

しかもそんな残りの建物を僧兵たちが軍事施設に転用している。このような武装勢力が私的な判断で武家の戦争に介入するなど、あっていいことだろうか。

比叡山にいる僧兵たちも、「創立の目的たる修行及び祭儀よりも武技を重んじ」て、僧侶らしい生活や仕事を何もしていなかった。

信長はまず麓にある仏堂と輿七つを焼き払わせ、3万もの大軍を山の周囲から攻め登らせた。織田兵が頂上まで達すると、僧侶たちは武器を手に応戦を開始した。追い詰められた悪党が正体を見せた。しかも僧兵たちが守る堂内には、美女や稚児が匿われており、その堕落ぶりは明らかだった。もはや言い逃れの余地などない。織田兵は容赦なく殺戮を開始する。

殺害された僧侶(ほとんど僧兵)が1500人、手のものである男女が1500人であったという。

こうしてみると、信長はすでに宗教施設の形を失って久しい無法者の隠れ家を打ち壊し、僧侶の格好をした連中を倒しただけである。

だが、かねてから信長に反発を抱く本願寺、その所領問題に不満を持つ幕臣たち、およびこれをチャンスと見た武田信玄らが実態を無視して、反織田キャンペーンを張ろうと、宣伝材料に活用した。そして信長本人も「批判上等!」とばかりに「第六天魔王」などと称したがために信長は仏敵として後世に印象されることとなったのである。

実際の信長は、仏教を嫌ってはおらず、参謀僧として沢彦(岐阜城や天下布武の名称を提案した)を重用し、京都に滞在するときは本能寺を定宿としている。

インチキ僧侶を罰する

ぎふ信長まつり 火縄銃鉄砲隊 写真提供/ぎふ信長まつり実行委員会

ある時、信長の城下に群衆が集まり、全く動こうとしないことがあった。

人々が集まっているのは、石場寺(いしばじ)の栄螺坊(さざいぼう)という僧侶のところである。ここには奇跡を起こすという謎の僧侶「無辺」なる人物が宿を借りていたのだ。

無辺は無償で「秘法」を用いて、生活や病気に苦しむ人々を集めて助けてあげているのだという。

無辺の噂を聞いた信長は、にわかに好奇心を持った。「その姿を見たい」と言い出したのだ。

すると栄螺坊は信長の要請に応じ、無辺を連れて信長の居城までやってきた。無辺は、馬小屋で信長と出会い、つぶさに観察された。

信長はしばらく考えてから、「生まれはどこか?」と尋ねた。すると無辺は、「無辺(いずれにもない)」と答えた。

重ねて「すると中国人なのか、それともインド人なのか?」と尋ねた。だが無辺はただ「修行者」と答えるばかりだった。

これを聞いた信長は「三国以外の生まれとは、不審なことだ。ならばさだめし術物、すなわちバケモノだろう。これより熱した鉄で炙ってくれん」と従者に鉄を持たせた。

すると無辺はすぐに「私は出羽羽黒の者です」と答えた。信長は「ただの売僧(まいす)ではないか」と呆れて、「生国もなく住所もなく、仏法のためと金銭も物品も受け取らず、奇跡を施していると聞く。一見無欲に思えるが、本心で何を望んで石馬寺に宿を借りしているのか知れたものではない。ためしにそなたの奇跡とやらを見せてもらおうか」と迫った。

だが無辺は何もすることができなかった。信長は「不思議な力があるなら、見た目からして普通ではなく優れているはずだと思うが、お前はどう見てもあらゆる人間よりも卑しいことが明らかである。そんなお前が女子供を騙して国民に無駄な時間を過ごさせているのは、見逃しがたい。ゆえに恥辱を与える」と従者に命じて、ぼさぼさの長髪を刈り取らせ、裸にして市中を引き回させた上で追放処分とした。

ところがかくして一件落着──とはならなかった。後になって、「実はあの無辺なる坊主、生活や病気に苦しむ女たちを相手に、秘法を授けると言って、淫らなことを強いていたそうです」と報告が入ったのだ。

それで無辺が無償で女子供に、インチキ療法を行なっていた理由が判明した。信長はすぐ分国中に無辺の逮捕状を出させ、これを引っ捕らえさせた。

信長は、無辺を糾弾したあと、これを斬刑に処したという。織田信長の峻厳な性格がよく伝わる逸話である。

ところで、この逸話には続きがある。

信長は「なぜあのような怪しい修行者に宿を貸したのか」と石馬寺の栄螺坊に尋ねた。すると栄螺坊は、「寺の雨漏りを直したくて、人気のある無辺を宿泊させておりました」と素直に答えた。

信長は、栄螺坊に潤沢な銀を持たせてその罪を不問とした。

この後日談からもわかるように信長は、寺院や僧侶を理由もなく毛嫌いしているのではなかった。信長が嫌っているのは、僧侶らしい役割を果たさず、身勝手に約束を破り、不真面目な生活をして平然とする宗教家が嫌いだったのである。

岐阜県の「ぎふ信長まつり」では、私利私欲なく、天下の平和を願った偉人の形跡に触れることができるだろう。

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