前田利家が天正11年(1583)6月14日、金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催される「金沢百万石まつり」。6月2日(金)~6月4日(日)に開催される祭りの一番の見どころは6月3日(土)の「百万石行列」です。今年は前田利家役として市川右團次さん、利家の妻であるお松の方役として紺野まひるさんが登場する予定で期待が高まっています。
そこで、前田利家とはどんな人物だったのか?歴史家の乃至政彦さんに伺い、前田利家と豊臣秀吉の関係からわかる、利家の人柄をご紹介します。
加賀藩前田家の家祖・前田利家
間もなく金沢百万石まつりがある。百万石の石高を誇った加賀藩の礎は、戦国武将・前田利家が築いた。
利家は加賀藩前田家の「藩祖」と呼ばれることもある。ただし「藩」というのは江戸時代の大名家を示す言葉で、利家は関ヶ原合戦の前年に亡くなっている。
徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開くのは関ヶ原合戦に勝利した結果のことで、利家は江戸時代の前の時代の人になる。だから、初代の開祖を示す「藩祖」と呼ぶのに抵抗のある人もいるようだ。
もし代案を考えるなら、利家は「家祖」と呼ぶのがちょうどいいのではないだろうか。
前田家には利家以前の歴史があるが、前田家は利家の代になって初めて国持ち大名になった。大名家の構築を成し遂げた実力を評価するなら、この尊称も似つかわしいように思う。
利家に近い例では、越後の上杉謙信がある。謙信の上杉家は上杉景勝の代になって出羽米沢へ移転して、景勝が謙信をことのほか崇敬したため、謙信が「藩祖」に数えられることがある。しかしこちらも江戸時代はもちろん豊臣秀吉の時代以前に亡くなっているので、やはり「家祖」が似つかわしい。
それにしても前田利家が大名に成り上がったのは、どういうわけだろうか。これには様々な要因があるのだが、筆頭に挙げるべきは、やはり人の縁であろうと思う。
利家は、天下人に昇り詰めた「豊臣秀吉」の「おさなともだち」であった(『浅野家文書』一〇七号文書)。
豊臣秀吉という人物
豊臣秀吉こと羽柴秀吉(もと木下藤吉郎)は、若き頃より利家と親しかった。利家は信長の身辺警護を請け負う身柄の確かな武士であったが、秀吉はこれより遥かに身分が下の「卑しい」身の上であった。
安国寺恵瓊は、(年次なし)正月11日付書状(『毛利家文書』八六二号文書)で、「近年、信長のもとにおいて『羽柴羽柴』と騒がれて、世間の期待を通し、また(侍らしく)弓矢を手に取り、(前線で)鑓働きもやって、(指揮官で)城の攻略までやっています。若い頃には侍のもとで雑用係(「小物」)をやったことがあり、乞食の生活まで経験したことがあるという人であるらしいです。それが(このように)出世するなど(普通に考えたら)ありえないことですが、(今はもう)日本を思うように操っています。今日まで上手にやっていますが、明日以降どんな目に遭うか予想がつかない人だと思います」という主旨のことを述べている。
重要なのは、今をときめく秀吉が過去には「小物」であり、時には「乞食」ですらあったという記述である。若い頃の秀吉は侍より下の身分で、時には最下層の地位にまで落ちたことがあったようだ。
秀吉の身分の低さは有名であった。
九州の島津家臣である上井覚兼は、その日記『上井覚兼日記』天正14年正月23日条において、秀吉のことを「世間では、羽柴氏のことを、本当に由来もない人であると言われております」と記す。
また、次のような愚痴もある。
「源頼朝以来ずっと変わることなく続く名家の島津家が、このような男を『関白』として見上げる形式の返書を送らなければならないとは、笑止なことです」
成り上がりの秀吉を上位権力者として公認しなければならないことに不満を覚えていたのだ。
覚兼はこれについで、「確かな素性もない者に関白を任じられるとは、天子様のお言葉が軽くなってしまったためです」と嘆きの声も漏らしている。
秀吉の身分が低かったのは、本人も認めており、しかもこれを恥じることなく自ら堂々と公言していたようである。イエズス会のパブロ・パステルスは秀吉が天正20年6月以降に予(秀吉)は過去において身分の低く疎ましい者であったにもかかわらず、天の下にあるこの世界を征服し始めた。天の下、地の上にある全人類は予(秀吉)の臣下であり、予(秀吉)を(主君として)認めぬ人々に対しては予(秀吉)は戦争を仕掛けると述べている(松田毅一訳『16-17世紀日本・スペイン交流史』大修館、1994)。
ここで秀吉は自分のことを「過去において身分の低く疎ましい者であった」と認めているのである。
秀吉は父親が誰だかわからず、母親も庶民の出であったのだろう。それがどういう経緯か織田信長の家中で引き立てられ、侍のような身分となり、弓矢を学び、読み書きを習い、武士として立身することになった。
そして尾張の城下町には、秀吉と同年齢の侍がいた。
それが前田利家である。
前田利家の前歴
そんな秀吉は、その遺言書で、前田利家を「おさなともだち」であり、「律儀」な性格と評している。秀吉は利家をとても信頼していたようである。
幼友達という表現を素直に受け止めれば、秀吉は成人前すなわち少年児童の頃から利家と親しくしていたものと想像される。
前田利家は尾張愛智郡荒子を拠点とする前田利春(利昌)の四男であった。利春は小身の領主である。貫高は2000貫とされている。
貧乏ではないが、特別富裕な上級層でもない。利家はその四男坊だったから、身分差を意識することなく、幅広い人物と付き合いを持つことに抵抗がなかったのだろう。
若き日の信長が「うつけ」すなわち不良の格好をしてだらしなくやっている時、利家はその親衛隊の一員に加わり、身辺警護をしていた。利家もかなりのかぶき者として、派手な格好を好んでいたように思われる。その過程で、才気と度胸に満ちた苦労人・秀吉が気に入って、仲良くしていたのではないか。
しかし若い利家は、些細なことで信長と不仲になったらしく、一度牢人の身になったという。それでも利家は信長に尽くしたいと思っていたようで、信長の合戦に自ら率先して参加して武功を挙げることもあった。帰参したいという思いが強かったのだろう。
利家は武勇に優れていたとされるので、その気になれば別の仕官先を探すこともできたかもしれない。ましてや信長は、駿河の今川義元という日本屈指の大名に狙われ、危機的な状況を迎えるが、桶狭間合戦において、信長の絶望を救わんと、自ら参戦して、今川兵の首を獲る手柄を立てるのである。
ひとつ間違えれば、利家は信長とともに破滅を迎えるかもしれない。生き残ったとしても今川側から憎悪を向けられる恐れがある。それでも利家は信長を選んだのである。
秀吉が利家を「律儀」と評したのは、こういう人柄があればこそだろう。やがて利家は織田家への帰参を果たす。
羽柴秀吉と前田利家の台頭ぶり
利家は信長の、赤母衣衆という精鋭部隊に編入して、各地で転戦を繰り返す。そして病気がちだった兄・前田利久から家督を受け継ぎ、一領主として、より大きな活躍を見せるようになる。
また秀吉も立身出世を進めて、近江長浜城主となり、どちらもそれぞれ信長の「天下布武」を支える有能な部将として、なくてはならない人物へと登り詰めていった。
そして天正10年(1582)6月2日に織田信長が、本能寺の変に倒れると、信長を殺害した惟任光秀を敗って、その首を晒しものにした羽柴秀吉が、次の天下人のようになっていく。
これに異を唱えたのが同じ織田家の重臣・柴田勝家だった。
北陸の雄から天下人の大老に
織田重臣の柴田勝家は北陸方面の軍団長となり、前田利家はこの頃、勝家の部下として、能登一国の統治を託されるにいたっていた。国持ち大名級にまで昇格していたのである。
その勝家が秀吉と敵対したことで、利家も幼馴染と敵対してくてはならなくなった。
勝家あっての自分であるから、これを嫌だと言って逃げることはできない。前田家は多数の家臣団と奉公衆を養っている。自分のわがままで彼らを路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
柴田勝家と羽柴秀吉は、天正11年(1583)4月21日の近江賤ヶ岳合戦で衝突。結果は秀吉の圧勝。なお前田勢は、篠原一孝や村井長頼らが羽柴軍の首を討ち取って、しかも小塚藤右衛門・木村三蔵・富田与五郎、そのほか五〜六人歴々が戦死する活躍を見せた(『利家公御代之覚書』)。
利家は柴田軍として申し分のない働きを示したのだ。勝家が敗走すると、利家は越前府中の城に入り、羽柴軍の攻撃に備えていたが、秀吉から使者として堀秀政が派遣され、和睦を持ちかけられた。
利家は、これを受け入れて城を開いた。府中開城の翌日である24日に柴田勝家は自害して、その遺領は秀吉のものとなった。
もし利家が頑強に抵抗していたら、秀吉はこの大飛躍を果たせなかったかもしれない。利家が秀吉方からの勧告に応じたのは、なんといっても幼馴染であったからだろう。勝家への義理は前田家中の血をもって果たしている。
以降、秀吉は利家をより高く買うことになる。
利家は、勝家の滅亡後、その遺領にある領主の説得にも活躍した。例えば、能登七尾城の富田景政に「秀吉と自分は、特別親しい間柄だからご安心ください」と伝えて開城を勧めている(「加能越古文証」/『大日本史料』天正11年4月25日条)。
同年6月14日、北陸を平和に導いた利家は、加賀金沢に入城した。
利家の行き届いた気遣いに、諸将と秀吉から愛された「律儀」さが何なのかがよくわかる。この性格を秀吉に好かれ、豊臣政権において「大老」の地位を得て、重宝されていくことのも当然のことであっただろう。
若い頃、「槍の又左」の異名を取ったという武勇自慢の利家は、自分からこれを威張ってみせたりすることもなく、実力と人柄をもって人望を集める器の大きな武将だった。
金沢百万石まつりでは、家祖・前田利家の姿を、胸に思い浮かべてほしい。
※参考文献 大西泰正『前田利家・利長』平凡社、2019