富山県小矢部市で、毎年7月の最終土曜日に開催される「メルヘンおやべ源平火牛まつり」。平安時代末期の武士で源頼朝、義経とは従兄弟にあたる木曾義仲が、倶利伽羅(くりから)合戦の際に用いた作戦「火牛の計(かぎゅうのけい)」にちなんだ、豪快で魅力あふれる祭りです。
祭りの一番の見どころである火牛の計レースは、鉄骨の台車の上に据え付けられた藁でできた巨大な牛を引いてタイムを競います。走る姿は勇壮でまるで840年前にタイムスリップしたかのような雰囲気です。
「火牛の計」のほか、様々な奇策で知られる義仲とは、どんな人物だったのか?歴史ライターの鷹橋忍さんがご紹介します。
2歳で父親を亡くす
木曾義仲(源義仲)は久寿元年(1154)に、武蔵国(埼玉県)で誕生したとされる。幼名は駒王丸という。父親は河内源氏の流れをくむ源義賢、母親は遊女だと伝わる。父の義賢は、源頼朝の父・源義朝の弟である。つまり、義仲と頼朝は従兄弟というわけだ。年齢は、頼朝が7歳年上である。
久寿2年(1155)8月16日、義仲が数えで2歳のときに、大事件が勃発した。武蔵国比企郡(埼玉県比企郡嵐山町)の大蔵館にいた義賢が、頼朝の異母兄・源義平(義賢の甥)に急襲され、討ち取られたのだ。この「大蔵合戦」により、義仲は僅か2歳で父を失った。
木曾へ
鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』治承4年(1180)9月7日条によれば、義仲は父・義賢が敗死すると、乳母の夫である中原兼遠に抱かれて信濃国の木曾に逃れ、木曾で育てられた。ゆえに、木曾義仲とも称される。
木曾の山中で成人した義仲は、武勇の才を受け継ぎ、平氏を倒し、家を興すことを望んでいたという。そのチャンスがめぐってきたのは、27歳のときである。
治承4年(1180)8月、以仁王(後白河院の第3皇子)の令旨を受け、従兄弟の源頼朝が兵を挙げた。それを知った義仲も挙兵を決意する(『吾妻鏡』治承4年9月7日条)。義仲の快進撃が、はじまろうとしていた。
頼朝との衝突を回避
挙兵を決意した義仲は、「市原合戦」と呼ばれる戦いで、平氏方と対戦している。『吾妻鏡』治承4年9月7日条によれば、義仲を討とうとした平氏方の信濃の豪族・笠原頼直と、義仲方の村山義直と栗田寺別当範覚が、信濃国の市原(長野市)で遭遇し、戦いとなった。
戦況は笠原頼直が優勢だったようだが、村山義直からの急報を受けた義仲が救援に駆けつけると、笠原頼直は平氏方の大豪族である越後の城長茂(当時は城助職)のもとに逃亡したという。
笠原頼直を退けた義仲は、同年10月、亡父・源義賢の本拠地であった上野国多胡(群馬県高崎市)に軍勢を率いて進出し、多胡氏などの亡父の郎党や、縁者を配下に加えた。義仲の上野国進出は成功したが、義仲は同年の12月に信濃に戻っている。鎌倉入りを果たし、上野国への勢力拡大を狙う従兄弟の源頼朝との、軍事的な衝突を回避するためだと思われる。
義仲は、打倒平氏のためには源氏同士の争っている場合ではないと考えたのかもしれない。
一躍、その名を知らしめた横田河原の戦い
翌治承5年(1181年 7月14日養和に改元)6月に、大軍を率いて信濃に進出してきた城長茂を、義仲は横田河原(長野市)で撃ち破った。「横田河原の戦い」と呼ばれるこの合戦に大勝したことにより、北陸道の豪族たちは、義仲を「武家の棟梁」と認めたという(永井晋『源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏』)。
義仲は北陸道に進出し、越後国府に拠点を置き、勢力圏を広げていった。
頼朝との対立
寿永元年(1182)7月、以仁王の遺児である通称・北陸宮(後白河院の孫)が、平氏の監視下から逃れ、時期は諸説あるが、義仲に庇護された。これにより、義仲は上洛して、北陸宮を即位させようという意識が芽生えたとされる(元木康雄『源頼朝』)。
翌寿永2年(1183)の春から、義仲と頼朝の関係が悪化し、合戦になりかけた(『平家物語』)。だが、3月に義仲が嫡男の源義高(志水冠者)を、人質として鎌倉に送ることで和睦し、合戦は回避された。嫡男を差し出してまで頼朝との争いを避けたのは、北陸宮を擁していたため、早急に上洛したかったからだとみられている(元木康雄『源頼朝』)。
後白河院との対立
その後、義仲は寿永2年(1183)5月11日に倶利伽羅峠の戦いと、6月1日の篠原の戦いで平氏の軍勢に大勝し、壊滅的な打撃を与えた。反平氏の武士たちが次々と軍勢に加わるなか、義仲はひたすら京都を目指して進軍し、平氏一門を都落ちに追い込んだ。
7月25日、平氏一門は僅か5歳の安徳天皇と三種の神器ともに、九州へ下った。
7月28日、義仲は天皇不在の京に入り、後白河法皇から平氏追討を命じられた。平氏が賊軍に転落した瞬間である。念願の上洛を果たした義仲であったが、皇位継承者の決定は後白河院の権限であるにもかかわらず、「北陸宮こそ、天皇にふさわしい」と主張。後白河院と激しく対立することになる。
義仲は院御所である法住寺を襲撃し、後白河院を幽閉した(法住寺合戦)。
義仲は人望を失い、寿永3年(1184)正月、頼朝から派遣された、頼朝の弟・源範頼と源義経によって、近江の粟津松原で討たれた。享年31、その最期は切ないものだったかもしれないが、平氏を都落ちに追い込み、無血で入洛を果たした義仲は、源平騒乱の前半のヒーローといってもいいだろう。
その木曾義仲が最も輝いたのは、倶利伽羅峠の戦いである。『源平盛衰記』によれば、この戦いにおいて義仲は、4~500頭の牛の角に、燃やした松明をくくりつけ、平家の陣へ突進させるという奇計を用い、勝利を手にしたという。
富山県小矢部市では、この「火牛の計」と呼ばれる奇策にちなんで、「メルヘンおやべ源平火牛まつり」が、毎年7月の最終土曜日に開催される。2023年も、7月29日(土)に行なわれる予定だ。祭りの最大の見所は、藁で作った巨大な牛を引き、そのスピードを競う「火牛の計レース」である。
火牛が失踪する勇壮なレースは、源平騒乱の時代の雰囲気を味わわせてくれるだろう。