富山県小矢部市で、毎年7月の最終土曜日に開催される「メルヘンおやべ源平火牛まつり」。平安時代末期の武士で源頼朝、義経とは従兄弟にあたる木曾義仲が、倶利伽羅(くりから)合戦の際に用いた作戦「火牛の計(かぎゅうのけい)」にちなんだ、豪快で魅力あふれる祭りです。
祭りの一番の見どころである火牛の計レースは、鉄骨の台車の上に据え付けられた藁でできた巨大な牛を引いてタイムを競います。走る姿は勇壮でまるで840年前にタイムスリップしたかのような雰囲気です。
現代に伝わる「火牛の計」とはどんな策だったのか?その他の奇策と合わせて義仲の戦いぶりを、歴史ライターの鷹橋忍さんがご紹介します。
横田河原の戦い
木曾義仲というと、「火牛の計」を用いたと伝わる「倶利伽羅峠の戦い」が有名だが、それと並ぶ華々しい戦果を挙げた合戦がある。義仲の名を世に知らしめた「横田河原の戦い」だ。横田河原の戦いとは、治承5年(1181年 7月14日養和に改元)6月13日、義仲が数えで28歳のときに勃発した、平氏方の越後国の大豪族・城氏を、横田河原(長野市)で破った戦いである。
信濃国に侵攻してきた城氏は、横田河原に陣を構えた。義仲は城氏の侵攻を知ると、ただちに出陣し、横田河原の近くである白鳥河原(長野県小県郡)に、軍勢を集結させた。
奇策
城氏方の軍勢は、1万余騎とも、4万余騎とも、6万余騎ともいわれ、その数は定かではないが、かなりの大軍であったことは確かだと思われる。対して、義仲方は3千余騎であり、明らかに兵数で劣っていた。
義仲の軍勢は南方から攻撃したが、戦いはなかなか雌雄を決しなかった。そこで、義仲は起死回生の一手を打つ。義仲方の井上光盛に、平家の印である赤旗を立てさせた仁科党(信濃源氏)の軍勢の指揮を命じ、奇襲をかけさせたのだ。
赤旗を立てた仁科党の軍勢が、城氏の軍勢の背後を迂回すると、城軍の人々は彼らを平氏方の援軍だと見誤った。仁科党は、援軍の到着に湧く城軍の目前まで近づくと、赤旗を捨て、源氏の印である白旗をさしあげて、一気に攻めかかった。城軍は大混乱に陥り、討たれたり、川や嶮岨な場所に追い落とされたりと、多くの兵の命が失われていく。そこで義仲は、残った兵力を一挙につぎ込み、勝負を決めた。
城軍を率いる城長茂は負傷し、甲冑も脱ぎ捨てた哀れな姿で、僅か300余騎に激減した軍勢とともに、からくも越後に逃げ延びたという(下出積與『木曽義仲』)。義仲は大勝利を手にしたのだ。
仁科党を指揮し、勝利に大きく貢献した井上光盛は、作戦にあたり軍勢を七つに分けたとされる。以後、七つに分かれての進軍は、義仲の戦いにおいて、吉例として使われるようになったという(上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』)。それは、次に述べる倶利伽羅峠の戦いでも、用いられた。
倶利伽羅峠の戦い
横田河原の戦いで大勝を収めた義仲は、北陸道に進出した。義仲の影響で、北陸道の反平氏は勢いを増していったという(美川圭『院政』)。よって、平氏は北陸道を鎮定すべく、寿永2年4月中旬、『平家物語』が総勢10万騎と伝える追討軍を派遣し、礪波山(倶利伽羅峠 富山県小矢部市)で、義仲と激突することになる。
世に有名な、倶利伽羅峠の戦いである。
平氏は、大手軍として平維盛(平清盛の嫡男・平重盛の長男)が率いる7万騎が礪波山を越えて礪波平野に続く道を、搦手軍として平通盛(清盛の異母弟・平教盛の嫡男)らが率いる3万騎が志雄山(石川県羽咋郡)から礪波平野に出る道を進んだ(永井晋『源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏』)。
越後の国府でこれを聞いた義仲は、5万余騎の兵を率いて出陣し、「吉例だから」と、軍勢を七手に分けた。『源平盛衰記』にはこの七手がそれぞれ記されているが、そのうちの一手は、女武者として知られる巴御前を大将とする1千余騎であった。
志雄山には、義仲の叔父・源行家が一万余騎を率いて向かった。義仲は一万余騎を率いて、礪波山の北端に位置する羽丹生に陣を構えた。
火牛の計
義仲が企図したのは、敵を包囲し、各方面軍が一斉に攻撃を仕掛ける夜襲であった。ゆえに、戦いは5月11日の昼間からはじまったが、小競り合いに終始し、各方面軍が敵の後方や側方に廻り込む時間を稼いだ(下出積與『木曽義仲』)。
夜になると義仲の軍勢は、太鼓を叩き、法螺貝を吹き、谷々に響く轟音とともに、三方から平氏の軍勢に襲いかかった。突然の夜襲に平氏の兵たちは狼狽し、長刀で自分の足を切ってしまう者もいたという。混乱のなか、平氏の兵たちは、義仲軍が配置されていない一角に殺到した。
だが、闇に包まれて見えないが、そここそが倶利伽羅峠谷であった。数え切れないほどの平氏方の人や馬が、真っ逆さまに谷底へと落下し、義仲軍は大勝利を収めた。
『源平盛衰記』には、この夜襲において、義仲が火のついた松明を4~500頭の牛の角に結びつけて、平家の陣に突進させるという奇策を用いたことが記されている。いわゆる「火牛の計」である。
司馬遷の『史記』「田単列伝」にも、牛の角に刃物を縛り付け、尻尾には葦の束をくくりつけて油を注ぎ、火を付けて、敵陣に突入させる「火牛の計」が描かれている。義仲はこの火牛の計を、倶利伽羅峠で再現したのだろうか。
この火牛の計にちなみ、富山県小矢部市では、毎年7月最終土曜日に「メルヘンおやべ源平火牛まつり」が、開催されている。
最大の見所は、鉄骨の台車の上に据え付けられた藁で作った巨大な牛を引き、そのスピードを競う「火牛の計レース」だが、和太鼓や舞踊、キッズダンスなどのステージや、屋台村コーナーなど、楽しいイベントが、盛りだくさんだ。豪快で魅力あふれるこの祭りは、2023年も、7月29日(土)に開催される。
今年もきっと、熱く盛り上がるに違いない。