毎年、赤穂義士たちが討ち入りを果たした12月14日に、赤穂市最大のイベントとして開催される「赤穂義士祭」。120回目を迎える今年の祭り当日は、元禄絵巻さながらの様々なパレードが繰り広げられ、俳優・歌手の中村雅俊さんが大石内蔵助役として義士行列に出演します。そのほか、忠臣蔵ゆかりの市町や近隣市町の特産品が集合する物産市や、市内各所でも様々なイベントが開催されます。
「忠臣蔵」という物語として知られる赤穂事件は、なぜここまで広められたのでしょうか?事件の内容と当時の状況を照合しながら、歴史家の乃至政彦さんが解き明かします。
赤穂義士祭
今年の12月14日(木)に兵庫県赤穂市で「2023赤穂義士祭」が開催される。
このイベントは、元禄15年(1702)12月14日に、大石内蔵助率いる赤穂浪士が主君・浅野内匠頭の仇討ちを標榜して、憎き吉良上野介を討ち取った記念日を祭るものである。
この事件はフィクション作品において「忠臣蔵」と呼ばれる。少し前までテレビ、映画、小説で毎年のように作品化されていた。
忠臣蔵の内容を簡単に説明しよう。
忠臣蔵と赤穂事件
すでに世は、戦国時代が終わってから100年以上あとの天下泰平。士農工商あらゆる人々が江戸時代の平和に慣れきっていた。
そんな時、不幸な事件が起きる。
何を思ったか、江戸城本丸の廊下において、赤穂藩の藩主・浅野内匠頭こと浅野長矩(ながのり)が、高家旗本の吉良義央(よしなか)に斬りかかった。長矩はその日のうちに幕府から切腹を命じられ、赤穂藩そのものも取り潰しとなった。浅野家臣たちはここに全員、浪人(=無職)となってしまう。
長矩の筆頭家老だった大石内蔵助こと大石良雄(よしたか)は、志ある赤穂の浪人たちを誘って、仇討ちを決断。その宿願を果たしたあと、幕府から罪人とされて、切腹を命じられた。
これを当時から大きな快挙と見る物が多数いて、「幕府によって不幸な最期を遂げたけれども、浅野家臣の大石内蔵助は近年稀に見る忠臣である」という声が強かったことから、「忠臣たる内蔵助」という意味合いを持つ「忠臣蔵」のフィクションが増産されることになった。
流行らなくなった忠臣蔵
しかし近年は、浅野長矩が吉良義央に斬りかかった動機が不明であること、そしてこの事件を美談として持ち上げるため、当時からさしたる根拠もなく(名君の誉れも高かったという)義央を賄賂好きの極悪人とする創作が横行したことへの反発などから、「史実における赤穂事件は本当に義挙といえるだろうか」という疑念が強まり、赤穂浪士一同への非難も集まったことから、フィクションとしても好まれなくなってしまった。
下火になった理由はほかにもあろうが、この解釈が概ね妥当であるだろうと思っている。
もちろん吉良義央が実際にどういう人物だったかは今となっては確認が難しい。浅野長矩の動機も不明で、精神的な病理によるものとする評価が強いのも大きく外れていないように見える。
だが、冷静に考え直してみたい。
民衆がこの事件を大いに喜んだ事実がある。私はここを民衆の身勝手さや善悪の問題に落とし込むべきではないと思う。
江戸時代ならではの閉塞感
戦国時代の武士たちは、秩序の破壊者であり、結果として歴史的に新たな社会の創造者としての役を担った。彼らは保守的な社会や秩序の守り手ではなかった。
ところが徳川家康が天下を取ると、彼らは真逆の存在となってしまう。政権を握った革命家の多くが、圧政者になってしまうように、武士たちは民衆の圧迫者となってしまった。
その政治は専制的で、ひどく息苦しいものだったという評価もある。
一側面として事実であろう。
だが、誰かがそうしなければ、戦国以来の混沌を抑え込むことはできなかった。「誰かが貧乏くじ引かなきゃなんねぇんだよ」である。
こうして民衆は戦乱を夢に見ることもない平和の味を覚えたが、「親心子知らず」の諺通り、数世代前には理不尽な出来事に対して抜刀して私的な暴力を行使することで、自分たちの鬱憤を散じていたのに、今は何があっても我慢して、忘れるようにしなければならなくなっていた。
これは武士たちも同じで、浅野長矩の抜刀事件を見た民衆もここにいささか同情を覚えたのであろう。
そして昔は武士本来の行動原理を実行した大名として、現在の武士たちの矛盾点を暴くところも評価したのであろう。
そして、そこに民衆の好む悲劇が連続した。
運良く生き延びた義央、願いを果たせず切腹を命じられた長矩、一夜にして全てを失った家臣たち。
それから一年以上の雌伏の時を経て、大いなる悲劇をバネに赤穂藩筆頭家老・大石良雄率いる47浪士が、義央の首を討ち取ったことは、現在のルールから大きく逸脱しているものの、その本筋にあるロックな思想「武士の本懐とはナメられたら殺す!!」を実現したことで、不動の人気を勝ち得ることになったのだ。
民衆にとって、浅野長矩や大石良雄の大義、あるいは吉良義央個人の善悪などどうでもよかった。
ただ、近世社会の秩序を保つために押さえ込まれた人間性の回復として、その覚悟と実行力に心惹かれたのである。
幕府の暴力性
ところで理不尽な秩序を支えていたもののひとつに、幕府の圧倒的な暴力があげられる。
幕府は、浅野長矩を切腹させてから一ヶ月少々が経過した4月19日、その改易を実行した。
赤穂城の引き渡しである。
その手続きは、戦国末期以来の作法「城請取り」の形で進められた。
幕府の命令を受けた諸大名が、それぞれ自前の大軍を率いて城まで進軍し、野戦抵抗を一切封じさせた上で、これを収公したのである。
改易の際の軍隊の行列は、参勤交代などの「大名行列」と同じである。戦国時代後期に創出された縦列隊形で、その編成は敵地を進む想定でデザインされている。
秩序の象徴たる大名行列と大石良雄の戦略性
赤穂城請取りにおける大名行列は、脇坂安照(やすてる)と木下公定(きんさだ)の編成が、今も史料にその行列図が残されている(「脇坂淡路守殿播州赤穂之城御請取之行列」「木下肥後守殿播州赤穂之城請取之行列」)。
2人の行軍図は極めて長大なのですべては掲載できないが、東京大学史料編纂所のデータベースで検索すればヒットするので、できれば一度、その目で見ていただきたい。
この大名行列を目にした民衆は多かっただろう。赤穂家臣と民衆だけでなく、行列の構成員たちも「赤穂城には、これに抵抗する戦力などあるはずもないのに」と思ったものと思われる。
それぞれ相互に「形式のために無駄に労力を強いるものだ」と鬱屈の思いを重ね合わせていたかもしれない。
忠臣蔵の事件は、こんな時代に起きた。
大石良雄も、人々がこの事件に何を思うかを想像しながら、吉良義央襲撃の計画を練り上げたに違いない。
その結果、今もこうして「赤穂義士祭」が地元に愛され続けている。この祭りは、良雄の戦略眼を「実証」するものと言えるだろう。皆さんも祭りを通して、歴史を超える偉人の冴えをその目で確かめてほしい。