Now Loading...

桐生八木節。地域に根ざしたその歴史と、コロナ禍を乗り越えた継承へ向けて

2022/8/29
2024/2/29
桐生八木節。地域に根ざしたその歴史と、コロナ禍を乗り越えた継承へ向けて

3日間で50万人以上が集まり、フィナーレには交差点から溢れるほどの人が櫓を囲み、桐生八木節を踊って熱狂する、桐生八木節まつり。群馬県桐生市を代表する夏祭りです。

地域の人々に愛され続けた桐生八木節が主役となる、現在の形で祭りが開催されたのは昭和39年(1964年)のこと。
以来、2019年までは毎年欠かさずに開催されてきましたが、2020年、新型コロナウイルスの影響ではじめての中止に。続く2021年も中止となりました。また祭りだけでなく、多くのチームが練習の機会を奪われてしまいました。

しかし、その間もオンラインでの取り組みを行うなど、桐生八木節の灯りは消えることなく、2022年の今年、規模を縮小しながらも“桐生八木節まつり”が復活の狼煙をあげることとなったのです。

そこで今回は、桐生八木節連絡協議会・諏訪郁雄会長、桐生織物協同組合・石原光茂専務理事に、桐生八木節の成り立ちや地域にとっての意義、そしてこれからの文化継承についてお話を伺いました。

諏訪郁雄会長

諏訪郁雄 会長

令和元年より、桐生八木節連絡協議会会長を務める。桐生八木節連絡協議会では、21ある桐生八木節チームの管理や、桐生八木節まつりでのステージ決めなどを管轄する。
また桐生八木節に関する事務局の役割も担当しており、姉妹都市である徳島県鳴門市や茨城県日立市との桐生八木節を用いた交流や、そのほか県内外の桐生八木節を用いたイベントの調整など行っている。
桐生八木節民謡会の会長も勤めている。

石原光茂 専務理事

石原光茂 専務理事

古くから養蚕が盛んな桐生地域の地場産業「桐生織」を統括する、桐生織物協同組合にて専務理事を務める。桐生織と桐生八木節の縁は非常に深く、石原専務自身も桐生八木節まつりの際はずっと踊り回ってしまうほどの、桐生八木節好きでもある。

―― 今回は桐生八木節についてお伺いしていきたいのですが、まずは成り立ちについて教えてください。

諏訪「話せば長くなるのですが、桐生八木節の源流は新潟県の十日町にあると言われています。

新潟を流れる、新保広大寺周辺の千曲川は、かつて大雨のたびに増水、氾濫を繰り返していました。その度に土地の境界が不明瞭となり、付近に住んでいた糸問屋の最上屋藤右エ門と広大寺の章外廓文和尚の間で、土地の所有権をめぐる競いが起こったんです。

そうして最上屋が金に物をいわせて、和尚をからかうような歌を製作。江戸に通う瞽女たちに唄わせて世間の評判を下げて裁判に勝利を収めました。
この歌はのちに民謡として伝わるようになり、振り付けもついて、新保広大寺節と呼ばれるようになったのです。」

諏訪郁雄会長

―― 日本民謡のルーツと呼ばれる新保広大寺節が関係しているのですね。

諏訪「彼女たちの新保広大寺節は八木宿や木崎宿でも盛んに歌われるようになり、やがて木崎宿では木崎節として生まれ変わり、商人や例幣使街道を行き来する運送引きの間でも盛んに歌われるようになりました。

栃木県足利生まれの通称堀込源太郎が木崎節を源太節にアレンジして、街道沿いで運送引きをしながら唄い歩き、大変人気を博し一躍有名になりました。

源太節は八木宿を始めとし、日光例幣使街道沿いにも評判となり、やがて全国へ広まることに。結果、当時の最新技術だったレコードとして販売されることが決まり、全国展開の祭、源太節から、地名が入った親しみやすい八木節へと、名称が改められたのです。」

―― そこから桐生八木節はどう発展していくのでしょう?

石原「ここからは私が引き継ぎますね。八木節が誕生しレコードでも大人気となった頃、桐生では地場産業・桐生織を、京阪方面へ展開していく施策を行っていました。
ただ当時の織物業界にはライバルも多く、なにか差別化を図り、インパクトに残る、土地を代表するコンテンツが必要でした。そうして群馬地域発祥だった“八木節”に白羽の矢が立ち、織物の販売と一緒に、桐生で発達した独特の八木節公演が行われるようになっていきました。」

桐生織物記念館に展示されている機織り機桐生織物記念館に展示されている機織り機

諏訪「桐生八木節の特徴は、他の八木節と比べて早いリズムをもっていることです。街中に響いていた機織り機のリズムを参考にしたのかもしれませんね。」

石原「この取り組みが初めて行われたのは、昭和7年。京都の岡崎へ売り込みに行ったのが始まりと記録されています。桐生織の法被をつくり、楽器を持参して、桐生八木節を披露していたそうです。」

石原「織物と踊りの組み合わせが功を奏したのか、新聞にも取り上げられるほどの好評を得ることに成功しました。それ以来、桐生織と桐生八木節はタッグを組み、全国を回るようになったのです。」

―― 桐生八木節の歴史について、お話いただきありがとうございます。桐生八木節まつりはどのように誕生したのでしょうか。

諏訪「桐生八木節まつりは元々、桐生まつりという名前でした。
それまで別々に行われていた、桐生祭り、七夕まつり、祇園まつり、産業祭を一つにしようと昭和39年に始まりました。昭和63年には、そこに八木節の名前が加わって、桐生八木節まつりとなりました。
現在の桐生八木節まつりで、さまざまな行事が行われているのにはそういった背景があります。」

―― 桐生八木節まつり最大の見所は、フィナーレの“八木節おどり”と言われています。本町5丁目交差点を大勢の人が埋め尽くす様子が印象的ですが、なぜ、あそこまで人々を魅了するのでしょうか?

諏訪「私も近年の盛り上がりには驚いているのですが、理由の見当がつかないんですよね。

ただ一つ、踊り手として言えるのは、桐生八木節の持つ独特なリズムがあります。機織りのリズムに似た早いテンポが、人々のテンションを引き上げ、物事を忘れるくらいに興奮させるのではないでしょうか?

やはり、群馬県の人々にはソウルミュージックとして親しまれていますからね。小学校によってはカリキュラムに採用されているところもあり、メロディーが聞こえたら自然と体が動いてしまいます。

現在は、桐生八木節まつりの日にしか集まらないチームもあるそうですが、それもそれで、桐生八木節まつりを楽しむ一つの形だと思っています。」

本町5丁目交差点で行われる、フィナーレの“八木節おどり”。本町5丁目交差点で行われる、フィナーレの“八木節おどり”。

―― 諏訪会長にとって、桐生八木節、そして桐生八木節まつりはどういった存在なのでしょう?

諏訪「これまでを振り返って、桐生八木節そして桐生八木節まつりは、私と社会をつなぐ接点でした。

川内2丁目の青年団に加入した18歳のあの日から、桐生八木節との深い関わりが始まりました。地域社会との関わりが生まれ、祭りの楽しさを知り、やがて桐生八木節チームにも加入し、様々な場所へ足を運ぶ機会にも恵まれたのです。」

諏訪「今や毎日、桐生八木節のことを考えています。桐生八木節や桐生八木節まつりは、私や地元の方々にとって、一つの文化と言えると思います。」

―― コロナ禍の影響でここ数年、桐生八木節まつりが開催されませんでした。その間、どういった活動をされていたのでしょうか?

諏訪「桐生八木節まつりの灯を絶やさないように、と、『オンライン八木節まつり』をはじめとしたオンラインでの取り組みや、クラウドファンディングなどに挑戦してきました。 けれどやっぱり、祭りがないと『さみしい夏だなぁ。』と思ってしまいますね。

ただ年数が経過したことや、対策が浸透されてきたことで、コロナ禍の影響も弱まりつつあります。なので今年は感染症対策等を徹底し、8月に全日本八木節競演大会や、ダンス八木節を行う競技大会を開催する予定です。

また現在、秋頃に向け、公演を開催するための協議を行っていたり、継承のための桐生八木節ワークショップの開催が決まっています。

身の安全の確保に最大限努めながら、桐生八木節まつりの復活、継承などを通し盛り上げていけたらなと思っています。」

桐生八木節まつり 特設WEBページはこちら

Photographer/高橋昂希

タグ一覧