北鎌倉の地で、何と“60年に一度”執り行われる祭があります。それが、円覚寺「洪鐘弁天大祭(おおがねべんてんたいさい)」です。1480年の催行から60年に一度、庚子(かのえね)の年に盛大な祭礼が行われてきました。
そして令和5年10月29日、約60年ぶりに催されたこの大祭は、北鎌倉を壮大な歴史絵巻に変えました。神輿や太鼓、唐人囃子に面掛(めんかけ)と、400メートルにも及ぶ圧巻の大行列を、地元の方々の奮励と共にレポートします。
目次
時は鎌倉、円覚寺の梵鐘「洪鐘」に由来
鎌倉五山の1つ円覚寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)にて執り行われる祭礼、洪鐘弁天大祭、通称「洪鐘祭(おおがねまつり/こうしょうさい)」は、何せ開催が60年に一度。祭に興味がある方でも“見たことがない”はもちろんのこと、“初めて知った”という人も多いのではないでしょうか。
令和の洪鐘祭に先立ち、その歴史を円覚寺の須原安仁法務部長に教えていただきました。
60年に一度、庚子の年に円覚寺と江島(えのしま)神社(神奈川県藤沢市)が合同で行ってきた洪鐘祭は、古くは室町時代の1480年(文明12年)の催行が『快元僧都記(かいげんそうずき)』(1532年から11年間にわたる快元の日記)で確認できているのだそう。
それから60年ごとに、天災や不作などによる度々の延期はあるものの、前回の1965年(本来は1960年開催予定が順延)の開催まで連綿と受け継がれてきたという、他に例を見ない由緒をもつ祭礼なのです。
名称にある「洪鐘」は、現在も円覚寺境内にある梵鐘「洪鐘(おおがね)」を指し、その起源は鎌倉時代に遡ります。
今から約720年以上もの昔、時の執権・北条貞時が父・時宗の遺志を継ぎ国家安泰を祈念し梵鐘を寄進したものの、鋳造に難儀します。
そこで貞時は、円覚寺住職の教えにより江島神社に参籠し、7日目に見た弁財天の啓示から円覚寺宿龍池の底で龍頭の形の銅を得ました。その銅をもって、ついに洪鐘の鋳造に成功。貞時はこの神助に感謝して、江之島から人頭蛇身の宇賀神(弁財天)像を勧請し、洪鐘の真体として洪鐘の側に弁天堂を建立し鎮守しました。
この洪鐘鋳造にまつわる江島弁財天へのお礼が洪鐘祭であり、円覚寺と江島神社の合同で行われる由縁です。祭礼に併せ、地元山ノ内地区の人々が盛大にパレードを行った天保時代の祭礼の様子は、板絵として円覚寺に残されています。
なお、江島神社の弁財天と円覚寺の弁財天は“夫婦弁財天”と呼ばれており、60年に一度、洪鐘祭で出会うことができると伝えられているそうです。
実は今回の洪鐘祭は本来2020年に開催予定でしたが、コロナ禍により3年遅れの開催となりました。しかも前回(1965年/昭和40年)は円覚寺の単独開催だったため、江島神社との合同祭礼は明治34年(1901年)以来、何と120年ぶり。前例を知る人がいない中、歴史を継承していくのは容易なことでは無かったと、須原住職はおっしゃいます。
「神社とお寺と地元の人々が一体になって行うという珍しい祭事であるだけでなく、最新情報で60年前ですから-。子供の頃“見た人”はいても、実行する側として“経験した人”はほとんどいません。残る史料も少ないなか、実行委員会のメンバーを中心に大人も子供も、山ノ内の人々が協力し、知恵を出し合いました。
それぞれの思いや責任感から議論が熱くなってしまうこともありましたが、これが洪鐘祭を執り行う意味なのだとも感じます」と、“繋いでいく者”としての思いを語ってくださいました。
室町時代から続く神仏合同の祭礼-その記録と記憶-
先述のとおり、古くは室町時代の1480年(文明12年)と、1540年(天文9年)の催行の記録が残る洪鐘祭。
以降、庚子の1600年、1660年については直接的な記録はないものの、創建から享保頃までの円覚寺の歴史が書かれた『鹿山略記』に他の祭礼が行われた記述があることから、この2回についても実施された可能性が高いとされています。
その後、江戸時代中期の1720年(享保5年)、1780年(安永9年)については開催の記録が確認されています。そして、それまで文字による記録だけでしたが、江戸時代後期の1840年(天保11年)の祭礼では、当時の行列を描いた板絵が円覚寺に残されています。
弁天堂に飾られた4枚の板絵には、地元の人々による張りぼての洪鐘や人形を乗せた山車、桃太郎をモチーフにした子供たちの仮装行列、さらには山ノ内の鎮守である八雲神社の神輿や獅子頭、面掛行列、江ノ島からの唐人囃子などが緻密に描かれており、華やかで賑やかな様子を伺い知ることができます。
この様子が令和の今にも再現されるなんて!想像するだけで胸が高鳴るのは、筆者だけではないはずです。
なお、この天保の祭礼では前年が天候不順だったため規模を縮小して行われたという記録があるそうです。それでもこの賑わい。60年に一度の洪鐘祭が、どれほど大きな行事であったかは推して知るべしといったところでしょう。
明治の祭礼(1901年/明治34年)の様子は、16メートルにも及ぶ絵巻で描かれた『洪鐘祭行列絵巻』(円覚寺、鎌倉市指定文化財)で知ることができます。江ノ島の唐人行列・囃子を先頭に、榊と鉾、獅子、面掛行列、雅楽、稚児行列、八雲神社の神輿、張子の宝珠、囃子、洪鐘の張り子、大太鼓と続く様子がつぶさに描かれ、その華やぎと活気が伝わってきます。
昭和の洪鐘祭は庚子の年から5年延期した昭和40年(1965年)に開催され、その様子は写真で残されています。祭礼の賑わいは変わっていませんが、山車は行列の一部がオープンカーになり、洪鐘の張りぼてはトラックに積まれてパレード。何よりも記録手段が筆から絵巻、写真へと、形を変えながら継承されてきた点も興味深いものです。
学びから始まる60年ぶりの準備に子供も関わる重要性
60年ぶりに令和の洪鐘祭を開催するにあたって、かなり前から準備が進められてきました。円覚寺洪鐘祭実行委員会を中心に地元の方々や有識者が集まり、まず洪鐘祭を知って学ぶための勉強会も幾度となく行われました。
ちなみに、面掛行列のお面は現在、鎌倉市有形民俗文化財に登録されており実際に使用することが難しいため、町では昭和の写真を参考に2020年、半年をかけて精巧なレプリカを作成したのだそうです。
行列のルートや屋台、装飾、衣装なども昭和開催の写真から研究。人出の予測など、勉強会を重ね、お寺も神社も、大人も子供も垣根を越えて協力し合い作り上げたといいます。
洪鐘の張り子制作に一から関わる新井昇さんは、「細かい仕上げは大人がしますが、多くの部分を子供達が作っています。洪鐘祭を作り上げた事が何か心に残ればと、張り子には寄せ書きをしてあるんですよ」と教えてくださいました。
60年ぶりの洪鐘祭2023の洪鐘ハリボテは実はハイテク!LED照明だけでなく鐘の音(実録)を響かせることが!祭当日は昼間だし喧騒だしで気が付かれないだろう事がわかっていても楽しむ皆さん素敵。 pic.twitter.com/GeH7BbYoJx
— 高橋美幸(SYSTEM B) (@matsuriemon) February 4, 2024
実行委員会副会長の鈴木全さんは、60年ぶりの洪鐘祭を歴史に忠実に、そして安全に実行・成功させるために、少ない資料を元に幾度となく議論を重ねてきたといいます。
いよいよ開催が近づいてきた時、「コロナ禍でなかなか進まず本当にできるのかと不安になることもありましたが、北鎌倉の住民が一丸となってここまで漕ぎ着けました。そして、洪鐘祭の記録と記憶を次の60年、120年後に引き継ぐために、より多くの“子どもたち”が洪鐘祭に関わることが重要だと痛感し、そのように心がけました」と話してくださいました。
ついに令和の洪鐘祭!北鎌倉が歴史絵巻そのままに
令和5年10月29日。8時半頃まで降っていた雨が嘘のように止むと、ついに60年に一度の洪鐘弁天大祭、「洪鐘祭」が始まりました。令和の祭礼では約800名がパレード。400メートルに渡る行列が、建長寺から小袋谷交差点と、同交差点から円覚寺まで合計約2.5キロメートルを盛大に練り歩きます。
名所、名刹の多い北鎌倉界隈ですから休日ともなれば賑わいますが、40年この地に住んでいるという地元の方でさえ「北鎌倉にこんなに人がいるのを初めて見た!」と興奮気味に話していました。
建長寺に八雲神社の神輿が到着すると、9時40分頃に祭の屋台や主催者の行列が、触れ太鼓を先頭に小袋谷を目指して出発。太鼓やお囃子の音が賑やかに響き渡り、祭りの始まりを知らせます。
行列の主役、実物大の「洪鐘の張り子」も車に乗せられてスタート。沿道の人々が顔をほころばせ、今か今か、次は何か?と身を乗り出して行列を待つ姿は、きっと過去の洪鐘祭と同じ光景なのでしょう!一定の間隔をおいて次から次へと、古の装束をまとった絵巻さながらの行列が鎌倉街道を練り歩いて行きます。
行列は、小袋谷交差点を折り返し円覚寺に向かう後半が一層華やかに賑わうのだそう。出し物の多さに目を奪われ、あっという間に折り返し!「次はもっとちゃんと見よう」と思っても次がないという高揚感。これぞ洪鐘祭見物の醍醐味です。
行列の最後尾近くでは、張り子の洪鐘が稚児行列やお母さん、お父さんに抱っこされた赤ちゃん行列、ちびっこ武者行列に先導されて円覚寺を目指します。
朝9時過ぎから総勢800名で練り歩いた行列の最後がついに、円覚寺に到着。60年振りの令和の洪鐘祭行列は、華やかさに目を奪われ瞬く間の3時間でした。
沿道の人々が口々に「名残惜しい!」と話す中、特に「見られてよかった!」「次はもう見られないから」という声が多かったのは、洪鐘祭ならでは。涙ぐむ人の姿もありました。
60年後-。担う子どもたちに引き継ぐ“伝統”と“思い”
さまざまな理由から近年、残念ながら催行を断念・縮小せざるを得ない祭がありました。そして「今年はできたけれど今後はどうなるかわからない」という祭も。そんな中、コロナ禍での延期を重ね洪鐘祭も例外ではなかったと聞きます。
御神体を乗せた神輿が円覚寺に入り、行われた閉会式では、大人から子供へと洪鐘祭の旗を引き継ぐ儀式がありました。このようなセレモニーは他の祭礼であまり見たことがなく、とても印象的であると同時に「一人でも多くの山ノ内の子供たちに体験してほしい!次に繋げるのが使命だと思っています」と話してくれた実行委員会の鈴木さんの言葉を思い出し、感動を覚えました。
「宗教とは関係なく皆さんが一つになり、こんな素晴らしい洪鐘祭が叶ったことに驚いたとともに、感謝いたします。変わっていくものはたくさんありますが、変わらないものもあるということを後世に伝えることができればと思います」と円覚寺の南嶺管長。
江島神社の相原国彦宮司は「これからもこの祭礼が途切れることなく続くことを願います」とおっしゃっていました。
平和を願い、互いを認識し、協力し合い、作り上げ、その喜びを伝統として繋いでいく--。洪鐘祭では“祭り”の在り方を再認識するとともに、「洪鐘祭がなかったらこんなに多くの子供、そして地域の皆さんと話すことなんてなかった。みんな分からないから話し合うしかないからね」という、洪鐘の張り子を作っていた新井さんの言葉に、洪鐘祭を繋いでいく意味が凝縮されているように感じました。
さて、次は208X年。どんな洪鐘祭になるのでしょう。楽しみです(筆者自身が見ることはたぶん叶いませんが)。
参考サイト
参考資料
・「特別展示 洪鐘祭-六十年に一度の祭礼の記憶-」(鎌倉歴史文化交流館)
取材協力
・円覚寺
・円覚寺洪鐘祭実行委員会