2021年7月から9月にかけて行われた東京ビエンナーレ。期間中には多くの作品が展示、ワークショップなどが開催されました。その東京ビエンナーレに出展していたのが、銭湯山車巡行というパフォーマンス。東京で閉店してしまった銭湯の部品をあつめ、組み上げた山車(だし)で巡行(じゅんこう=祭礼で山車や行列が練り歩くこと)を行うというものです。主催したのは文京建築会ユース。
「銭湯の価値は一つじゃないんです。それを伝えるため、今回、山車そしてお祭りという形を取りました。」
と話すのは文京建築会ユース+銭湯山車巡行部・三文字昌也さん。
銭湯の価値とはなにか?そして銭湯山車巡行に込めた想い、そしてそれを実現するために行なった建築家ならではの工夫についてお話をお聞きしました。
文京建築会ユース+銭湯山車巡行部とは?
銭湯山車を企画・制作し、巡行を行ったのは、文京建築会ユース+銭湯山車巡行部。今回は主要メンバーの一人である三文字昌也さんに、銭湯山車巡行に込めた想いについて伺いました。
三文字「文京建築会ユース(以下BKY)とは、文京区の若手建築家たちが集まり、建築を通して、地域を盛り上げたり価値のあるものを再発見したりしていく団体で、2011年に発足しました。」
2011年にスタートを切ったBKY。当時は文京区内の神社さんの狛犬を集め比較したり、区内で売られている豆腐を買い比較したりするなど、幅広い活動を行なっていたそう。
そんなBKYと銭湯が出会ったのは2013年のこと。文京区千石にあった銭湯・おとめ湯が廃業する運びとなり、取り壊し前の実測・記録調査をBKYが行うことになったのです。
三文字「おとめ湯の実測・記録調査はBKYの代表である栗生はるかさんを中心としたメンバーで行わせていただきました。おとめ湯には中庭があり、洗い場からは中庭の池を泳ぐ鯉が見られるなど、とても立派な銭湯でした。廃業した後は壊してしまうとのことだったので、立派な施設の様子を後世に伝えたいとお話し、見学会や調査を行う運びになったんです。」
おとめ湯の調査をきっかけに、銭湯の情報を発信し今ある銭湯を守っていければとBKYは銭湯の展示会を開催するように。活動が盛んになるにつれ、区内の銭湯との繋がりもできていきました。
その後2015年には文京区目白台にあった銭湯・月の湯が廃業。BKYは月の湯の廃業にあたり、実測・記録調査に加え、さまざまな物品の引き取りも行いました。
「ガラスでできた広告看板や、キャンバスに描かれた富士山のペンキ絵など、歴史的に見ても貴重な技術が使われた物品が数多くありました。これらも施設と同様に廃業後は捨ててしまうとのことでしたので、どうにか保存できないかと考え、我々が引き取ることにしたんです。」
こうして始まった物品の収集活動がやがて、銭湯山車の制作・巡行へと繋がっていくのです。
「銭湯の価値は楽しく伝えていいんだ」 ギミック満載、建築家ならではの銭湯山車へのストーリー
廃業していく銭湯への調査と物品の引き取り。貴重な歴史をもつものを後世に伝えたい、という想いから始まった活動ですが、全てが楽に進むことばかりではありませんでした。
三文字「銭湯が次々となくなっていくなかで、私たちは廃業してしまう銭湯に対する活動をある意味焦燥感にかられて行なっていました。『いま記録を取らないと、いま物品を引き取らないと、そうでないともう二度と見ることはできない……。』そうした強い想いから銭湯の大家さんにお願いをしても、実際の活動では大家さんから『今更調査だ、記録だなどと余計なことをしてくれるな』と言われたこともありました。そうして段々と、『なんのため、誰のために保存活動をやっているのだろう?』と思うようになってしまったのです。」
そんなときに出会ったのが“京都銭湯芸術の祭りMOMOTARO二〇一七”というイベントで見た銭湯のお神輿。一目見たとき、三文字さんは衝撃を受けたと言います。
三文字「銭湯の価値を伝える活動は、もっと楽しく街に出てたくさんの人とともにやっても良いんだと実感しました。これを東京でできればきっとすごいものになる。すぐ、夢中になってスケッチを書き起こしていました。」
三文字さんの確信にはある理由がありました。実は東京の銭湯で多いのは、宮造りと呼ばれる神社やお寺などを模した建築方式。そのため、お神輿や山車との相性がバッチリだったのです。
京都から帰ってきた後、強力なメンバーとともに、“銭湯山車巡行部”というチームを結成しました。文京区でずっと銭湯にまつわる活動を続けてきたBKY代表・栗生はるかさんに加え、銭湯山車の設計を全般的に担当したのは建築家・内海皓平さん。山車の象徴となる彫刻部分を担当したのは、2015年秋の菊水湯廃業に際して知り合った彫刻家・村田勇気さんでした。材料には村田さんが引き取っていた、菊水湯の大黒柱が用いられました。
そのほかにも銭湯山車にはロッカー、釜、下駄箱、カラン、番台といった、歴史ある貴重な銭湯の物品が用いられています。制作期間は2月から始まり7月までの約5ヶ月。途中にはTVの取材が入り、急ピッチで作業は進んでいきました。
三文字「制作で一番苦労したのは、いかに分解でき、再度組み立てられるようにするか?という点でした。
普通のお神輿や山車はお祭りのときにだけ使い、そのほかの期間は神楽殿に保管されていますよね。でも銭湯山車はそうしたくなかったんです。巡行のとき以外も、様々な場所でたくさんの人に見ていただけるようにしたかった。そのためには展示会場に搬入するために、エレベーターに入るサイズまで分解可能にする必要があったんです。内海さんが天才的な設計で実現してくれました。」
内海さんが引いた図面を元に制作し、細かい部分は現場判断で対応。そうして出来上がった銭湯山車は、大黒柱が取り外しでき、煙突がスライドし短くなる、横に立たせることもできる、などギミック満載の山車となりました。
三文字「制作では分解の他に、使用した物品の機能を残すことにこだわりました。番台には入ることができますし、蛇口をひねればカランから水が出てきます。新しい材料を用いつつそれらを修復し、取り付けていったんです。村田さんが制作した彫刻のように新しく創作・再現した部分と、歴史ある物品がうまく調和するよう制作に当たりました。」
銭湯の価値は一つじゃない 銭湯山車に込めた想い
文京区内の廃業してしまう銭湯を実測・調査し、銭湯山車の制作まで行なった、三文字さんやBKY+銭湯山車巡行部。銭湯に対し、いったいどのような価値を感じているのでしょうか?
三文字「僕自身、学生の頃は文京区本郷の風呂なし下宿に住んでいて、菊水湯によく通っていました。向かいにはおじさんが住んでいたのですが、銭湯のなかだと話が弾んだことはよく覚えています。銭湯以外で会うと何も話さないんですけどね。
そういった経験から銭湯には、地域のコミュニティの形成の意義だったり、建築家の視点から建築様式の素晴らしさだったりを感じています。
だからこそ銭湯には様々な価値を感じてもらえればいいと思うんですよね。僕らは『銭湯には地域コミュニティ上の意義があって、建築様式も素敵だ』と主張はするけれど、押し付けはしない。見た人それぞれが自分の思い出とともに、自分だけの銭湯の価値を感じてくれるキッカケになればいいなと思っています。
今回はそういった意図もあって、銭湯山車の活動をお祭りのように進めていきました。僕は、お祭りって開催することで今まで地域に埋もれてしまっていた資源・価値を顕在化する取り組みだと思っているんです。実際、今回の巡行で山車を曳きながら見る街の景色は、普段とはまるで違ったものでした。
巡行の途中、今までお世話になってきた銭湯のご主人やおかみさん、地域の方々、そして銭湯山車の発想の原点となった“京都銭湯芸術の祭り”の主催者の方など、関係する様々な方からご声援をいただき、この企画をやってよかったなと実感しましたね。
今回、僕たちは地域に埋もれている価値の一つとして銭湯を顕在化する取り組みをしていきました。顕在化した銭湯にどんな価値を感じるかは、銭湯山車に興味を持ってくれたみなさんに委ねていきたいと思っています。」
おわりに
銭湯山車は9月7日〜10月3日にかけて、法政大学の展示「〈人・場所・物語〉―“intangible”なもので継承する江戸東京のアイデンティティ」に参加し展示を行うそう。10月中には都内各所でイベントや巡行を企画しているといいます。一方でその後の行き場所が決まっていないのが悩みなのだとか。
記事を読んでいただいた皆さんは、銭湯山車の取り組みについて、どんな感情が湧いてきましたか?その感情がきっと、あなただけが感じる銭湯の価値となっていくはずです。実際に銭湯へ足を運んでみていいかもしれませんね。BKY+銭湯山車巡行部のこれからに注目です。
●銭湯山車巡行ホームページ https://www.sento-dashi.tokyo/
●文京建築会ユースの問い合わせ先はこちら