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京の都と遠州森町と小田原の縁を繋いだカマキリ!山名神社「祇園大祭天王祭舞楽」2023年の開催情報も!

小澤 洋一
2023/7/13
2023/7/13
京の都と遠州森町と小田原の縁を繋いだカマキリ!山名神社「祇園大祭天王祭舞楽」2023年の開催情報も!

京都祇園祭の数有る山鉾の中でも、カマキリのからくりが乗ることで人気の蟷螂山(とうろうやま)。その蟷螂山で舞われていたとされる舞が約500年前に京都から森町飯田(静岡県周智郡)に伝えられました。それを伝えたのは小田原の菓子「ういろう」で有名な外郎(ういろう)家。

この遠州の田舎の地に都の文化が伝えられたのは偶然なのか、はたまた必然なのか…

(この記事は2019年に公開されたものを再編集しています。2023年7月13日 編集部更新)

 

山名神社祇園大祭

京都祇園祭 蟷螂山

山名神社天王祭舞楽 蟷螂の舞の被り物

遠州の小京都の祇園社 山名神社

神社の創建は706年(慶雲3年)と伝えられ、江戸時代までは牛頭天王(素戔嗚尊)を祀ることから牛頭天王社、天王社と称されていましたが、明治元年の神仏分離に伴い山名神社となりました。

地域の人たちからは「飯田の祇園さま」、「お天王さま」と呼ばれています。

拝殿

三間社・流造・銅板葺(旧檜皮葺)の本殿は享保17年(1732年)築。

蟷螂山を創った外郎家

外郎家は中国より九州博多に渡ってきた渡来人で、子孫の陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそうき)が後に京都へ移り住み、透頂香(とうちんこう)という名の薬で商売をし成功します。その透頂香を飲みやすくするために菓子のういろうを作ったようです。
現在の蟷螂山町の辺りに住んでいた陳外郎大年宗奇は、永和2年(1376)、自分の力を顧みず強敵に立ち向かう中国の故事「蟷螂の斧」にちなんで蟷螂山を創ります。

その後戦国時代初期に、外郎家は伊勢宗瑞(北条早雲)に招かれ小田原へと移ります。
外郎家は小田原に移住する際、飯田の南隣の地区、現在の袋井市春岡にある真言宗の古刹 西楽寺にしばらく滞在したらしく、その時に京都祇園祭の舞が西楽寺に伝えられたようです。後に飯田の山名神社に引き継がれたと考えられています。

京都の街づくりを模した「都うつし」

遠江国飯田荘は、蓮華王院領(三十三間堂)で白河・鳥羽・後白河三代上皇の御起請地(ごきしょうち)でした。このころ京の都をうつした町づくりが行われたとされています。
白河天皇は、1075年(承保2年)に法勝寺(ほっしょうじ)の造営に着手しました。現在の京都市動物園の辺りにあった寺院です。この法勝寺の直末寺が飯田荘に有った東補陀落山 (ひがしふだらくさん) 観音寺(廃寺)です。

太田川を京都の加茂川に見立て、その観音寺の南側に疫病を祓い流す祇園社(山名神社)、北側の戸和田郷の賀茂山に賀茂社を勧請しました。太田川の西岸の山には古くから天台宗の修行道場 八形山蓮華寺が有り、比叡山として見立てたようです。

 

遠州唯一 舞楽と屋台が織り成す祭礼

山名神社天王祭舞楽について

山名神社に伝わる舞は舞楽というよりも、京都の祇園祭、しかも応仁の乱以前の形を伝える風流舞で、演目は、八初児(やつはち)・神子(みこ)・鶴(つる)・獅子(しし)・迦陵頻(かりょうびん)・龍(りょう)・蟷螂(とうろう)・優填獅子(うでんじし)の八段です。

元禄時代に書かれた舞の指南書には、大阪四天王寺から伝わったと書かれていますが、これは戦国時代に一時中絶していた舞が再興されたことを指していると考えられています。

小國神社・天宮神社の十二段舞楽とあわせて「遠江森町の舞楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されたときに「山名神社天王祭舞楽」と名付けられたようです。地元の人は「お舞」と呼びます。

天宮神社十二段舞楽はこちら

小國神社古式十二段舞楽はこちら

舞人は、現在では小学生から高校生くらいまでの男子です。

 

八初児(やつはち)

八初児(やつはち)は、小学校低学年2人の舞で天冠に八撥を腹に括り撥を持って舞います。京都祇園祭の長刀鉾の稚児の装束に似ています。この舞は祓いの舞といわれ、祇園祭では重要なものです。本祭日のまくり(舞楽奉納の最後)の前にも舞われます。

神子(みこ)

若い女性の面を付け、夕顔柄のうちかけを着て、扇と鈴をもって前後する所作を基本に舞います。

鶴(つる)

阿吽の2羽の鶴が舞います。 装束は同じ京都祇園祭をルーツとする津和野の鷺舞に似ています。

 

獅子(しし)

2人の少年が獅子の被り物を付け舞います。

 

迦陵頻(かりょうびん)

迦陵頻とは、天竺の祇園寺供養に舞い降りたという鳥です。天女の舞を想定しているようです。
龍(りょう)

2人の子どもが龍頭を被って左右の丸柱によじ登り、逆さになって上半身を上下にあおる曲芸的な舞です。雨乞いの所作と言われています。

 

蟷螂(とうろう)

蟷螂は文字通りカマキリの被物を頭に付け、背中に4枚の羽根を背負って舞います。京都祇園祭の室町時代の文献には、このようなカマキリの装束を着けた子どもたちが巡行に参加したと記されているようです。

 

 

 

優填獅子(うでんじし)

優填王は、山名神社の祭神 須佐之男と言われており、竹の輪で荒ぶる獅子を捕らえます。

古くは優填王の役のみ下飯田の村松氏の世襲でした。

 

これらの舞は、本来村々の辻で行なわれたようですが、山名神社拝殿の正面に舞殿を常設し、正面左右2本と建物中央付近の土台から天井に突き抜けた心柱の計3本の柱の中央に 四半畳(しはんじょう)のうすべりを敷き、この中で舞われます。舞台の左右に鼓の4人が並び、西側奥に笛が座ります。中央の柱の奥に太鼓を置き、その背後は神紋幕で楽屋と隔てられています。

舞殿

 

屋台について

飯田地区の屋台は森町の他地区や、遠州地方の天竜川より東の中東遠と呼ばれる地区に多い高欄型二輪屋台です。屋台には各町内自慢の彫刻が入り、高欄には歌舞伎や昔話を題材とした山車人形が乗り、手木(てぎ)と呼ばれる枠の中に6~8人が入り曳き廻されます。
飯田地区の8つの町内会がそれぞれ屋台を持って3日間の祭礼に参加します。天王祭舞楽の奉納の途中で宮入し、8台の屋台がこの舞台を廻って御祭神に挨拶をし町内会に帰って行きます。屋台が舞殿を廻り始めると、舞の楽は屋台の祭囃しにかき消され、聴こえなくなります。舞人も聴こえにくくなっていると思いますが、調子を取りながら舞い続けます。

祭が盛んな遠州でも、ここ山名神社にしかない舞と屋台の競演が見られます。

宮入した屋台

 

舞楽奉納をする舞殿を周る屋台

拝殿前で御祭神に挨拶をする屋台

 

8台の屋台紹介

城栄社(城北)昭和61年森地区・向天方より購入

東雲舘(東組)昭和29年7月制作

若宮社(若宮)平成3年11月に森地区・新町より購入

宝僊社(西組)昭和29年7月制作

鶯鳴舘(上飯田)明治41年制作

森町で現役最古の屋台です。

 

本城舘(中飯田)平成30年製作

先代本城舘は、小田原市で活躍中です。

宮本車(下飯田)平成6年6月制作

 

浅草舘(市場)平成8年5月制作

市場の町内名は西楽寺を中心とする地域の市場だった名残です。

 

蟷螂山町と遠州森町の新たなご縁

数年前、蟷螂山町の町会所の看板が新調されました。揮号されたのは伏見に在住の書家 杭迫伯樹さん。

杭迫さんは遠州森町の出身です。蟷螂山町の方は杭迫さんが森町の出身だとは知らずにお願いしたらしいです。

500年の時を越えて新たな蟷螂山と森町のご縁が生まれました。

蟷螂が繋いだ縁

約500年前、都から小田原へ向かう旅の途中で外郎家がなぜこの地に滞在してお舞を教えたのか?
想像でしかありませんが、都うつしで造られた町が、どことなく京の町を感じさせたのでしょうか。
外郎家25代当主 外郎藤右衛門さんは、毎年社員を連れて山名神社祇園大祭に立ち寄ってくださいます。京都祇園祭では蟷螂山の総代を務められているそうです。

 

山名神社祇園大祭は7月15日に近い金土日に開催のため、日程が京都祇園祭と重なってしまうのですが、蟷螂山で蟷螂の舞を奉納するのが山名神社天王祭舞楽保存会の、飯田地区の皆さんの夢です。

2023年の開催情報!

【開催日】

2023年7月14日(金)〜7月16日(日)

【時間】

14日(金)18:00~宵宮祭

15日(土)・16日(日)13:00~お渡り、16:00~舞楽、19:00~屋台宮入

【会場】

山名神社(静岡県周智郡森町飯田2590)

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