鬼たちは白い粉を浴びせます。豆ではなく粉?と驚く方もいるでしょう。珍しくて見所満載の愛知県・豊橋鬼祭。平安時代から鎌倉時代の古式田楽を取り入れた神事として継承されており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
非常に長い歴史があり特徴的なこの鬼祭は、どのように継承されてきたのでしょうか?拠点となる安久美神戸(あくみかんべ)神明社の宮司を勤めておられる平石雅康様にお話を伺うことができました。
豊橋鬼祭の歴史
――まずこの鬼祭の始まりについて伺いたいです。
平石さん「祭りの行われる安久美神戸神明社は、平安時代の後期、天慶3年(940)に当地が伊勢神宮の神戸(神領地)になったことに始まります。その神領地で五穀豊穣や一年の無事安寧を願う神事を年々行う中、当時流行していた田楽舞がどこかで取り入れられるようになり、鬼祭の原型ができたと考えられます。始まりは平安とも鎌倉とも言われますが残念ながら古記録は残されておりません。室町時代、今川義元公の奉納と伝わる天狗と鬼の古面が残るばかりですが、田楽や神楽舞といった神事の中にこそ往古の遺風が残されているかと思います。また、未だ今川家の人質であった幼少期の徳川家康公が、神社の松の根元に腰掛けて鬼祭をご覧になったと伝えられます。後に征夷大将軍となられた家康公に京都伏見城で拝謁した当社神主司守信は、当時の祭礼の様子を懐かしむ家康公より下問を受け、朱印を以って三十石の社領を賜ったとされます。この故事は後の吉田藩主たちの倣うところとなり、毎年鬼祭に社参することが恒例となり、所縁の松は「東照宮御腰掛松」として毎年奉幣神事が行われる程に丁重に祀られてまいりました。
現在2月10、11日に行わる鬼祭は、元は旧暦の小正月前日、1月14日に行う正月予祝の祭礼でありました。明治の改暦により紆余曲折を経て現在の日程となっています。三遠南信地方では、正月前後の冬の時期に花祭りをはじめ鬼や天狗の登場する民俗芸能が数多くみられますが、御嶽修験や伊勢修験といった修験者が芸能を伝播し大きな影響与えたと考えられています。さらに街道沿いに位置する当地は東西との交流も盛んで様々な文化が伝わりやすい環境にあったと言えます。山々を伝播したものが川を下って河口付近まで下り、街道を往来する東西の文化を受け入れつつ、都市の祭礼として発展したのが豊橋鬼祭だと言えるでしょう」
豊橋鬼祭の特徴
2月に鬼が登場する行事といえば節分の豆まきが有名です。ただ豊橋鬼祭の場合は豆を投げるわけではなく、「タンキリ飴」という飴を投げる風習が伝わっています。これはいたずらをする鬼を天狗が懲らしめ、鬼は罪や穢れを祓う意味で飴や粉を撒くというストーリーの中で行われます。鬼祭りの注目ポイントや特徴について伺ってみました。
――鬼祭では厄除タンキリ飴という飴が出てくるようですね
平石さん「このタンキリには諸説あり、短く切る短切、痰を切る痰切などがあります。周辺地域ではさつまいもの生産が盛んで、芋飴をつくる風習があることから祭礼に用いられるようになったと思われます。ただし、かつては穀物の粉を練って固めた餅を撒いていたと伝えられており、いつからか飴に替えられるようになりました。タンキリ飴と共に撒かれる大量の白い粉は穀物の粉(小麦粉)で、かつて撒いた餅に使われた粉の名残なのかもしれません。この粉を浴びると厄除になると言われ、多くの参詣者がこぞって粉を浴び真っ白となる姿は豊橋の冬の風物詩となっています」
――鬼の所作に特徴はありますか?
平石さん「『からかい神事』は荒ぶる神の赤鬼と武神の天狗との闘いをあらわしています。この中で赤鬼はユーモラスな所作で天狗を再三挑発します。『からかい』と呼ばれる所以で、撞木(しゅもく)を投げる所作『すっこき』や、鼻や股間の穢れを投げつける『鼻投げ』や『金玉投げ』の秘術を行いますが何れも天狗にかわされ、徐々に追い詰められてゆきます。またこの間、赤鬼は境内をイナズマ型にぴょんぴょんと跳ねるように移動します。田楽にみられる反閇(へんばい)の一種で、邪気を地中に押しやり、清め祓う意味を持ちます」
――天狗も登場しますね
平石さん「天狗は武の神故か鎧具足に侍烏帽子、長刀を携えています。鎧具足に身を固める天狗の姿は大変珍しいかもしれません。吉田城築城以後神社は城の内にあり、毎年祭礼に際して吉田藩からの援助を受け、鎧をお城から借り受けていたことも記録されています。家康公の鬼祭参詣の故事が残される上、城内を鎮護する神社でもあったことから、藩主から手厚く庇護を受けてきたという背景があるのでしょう」
――鬼のデザインが気になります
平石さん「鬼の身をかがる白い紐は華鬘(けまん)と呼ばれます。花祭りや他の鬼の行事でも体に紐を結んでいることがありますが、豊橋鬼祭の鬼の結び紐は太く、且つ大変複雑になっています。さらに鬼の身体が大きく太いのも特徴で、赤鬼の力の強大さをあらわしています。装束を付ける際には座布団と呼ばれる詰め物を中に入れる為、身動きがとりづらく、重さもかなりのものとなります。冬の祭礼故に参詣者は寒い中の観覧となりますが、鬼役は詰め物を仕込んだ装束をつけ動き回るため、真夏の如き暑さとの闘いともなります」
――赤鬼と天狗以外にも様々な役柄がありますね
平石さん「赤鬼と天狗の他に『からかい神事』を見守る黒鬼を含める三役が神役と言われ、特に重要な役割とされます。この他、司天師は暴れる赤鬼によって傷ついた神をあらわしており、足を引きずった所作で田楽や神楽を舞います。日と月の陰陽二神がおり、二十八宿の星座が描かれた饅頭傘をかぶり離坤兌乾坎艮震巽の八方に飛び跳ねて舞い、どこに行っても平和であると喜びをあらわします。この他に稚児による神楽や田楽、榊弓で一年12本の矢を的に射る魔除けの『御的神事』、榎の玉を引き合って農作物の豊凶を占う『お玉引き』等、神事は多岐にわたります。これらの役柄は持ち回りではなく、氏子の町々に担当が定められており、各町それぞれに自身の役に誇りをもって保存継承に励んでいます」
担い手の確保、町を出ても鬼祭は帰ってくる
――歴史的には農村から都市の祭礼になって担い手も変化しましたよね
平石さん「元々は飽海神戸の神領民の祭りでしたが、吉田城が築城され城下町が広がると都市型祭礼に変化していきました。それでも祭りの中心は小さくなった飽海村の農民が担いましたが、祭りを行う神社は城の堀の内となり、見物人の多くは武家や町人が入り混じるといった一風変わった状況となります。軈て小さくなった村で全てを担うことが困難となり、周りの町々に役割が受け渡されるようになります。
この傾向は明治以降に拍車がかかり、役割の無い町の中には、小鬼や青鬼と言った新たな役割を自ら創出する町も出てきています」
――現在、担い手育成や継承の観点からはどんな課題がありますか?
平石さん「神社の氏子地域は住民の空洞化に加え高齢化も進んでおり、担い手不足は喫緊の課題となっています。少なくなる住民以外に他所へ転居した元住民の積極的な参加を促し、更に今後は居住経験が無くても参加できる、また参加しやすい組織作りが必要となってきていると感じています。これまで一つの町で担当した役割を複数の町共同で受け持つようなことも必要になってくるように思います。一方、重要無形民俗文化財として古式を崩さぬように保存伝承することも非常に重要で、先輩からの口伝だけではなく、誰が教えても内容が変化しないように所作を明文化し、映像等の記録を利用するなどして、変化を防ぐように心掛けなければならないと考えます 」
――豊橋鬼祭保存会とはどのような組織ですか?
平石さん「昭和53年に設立した豊橋鬼祭保存会は祭りの保存継承を目的に組織されたもので、地元の祭り従事者を中心に構成されています。飽海村一村で担っていた祭りが各町に役割を分散したことにより、全体をまとめる組織が必要になったことも設立の一因と言えます。氏子区域は二つの小学校区を跨いでおり、祭り以外に顔を合わせないといった人たちも多くいます。保存会はこうした人たちを繋ぐ場となり、起こりうる問題を未然に防ぎ、各町間を調整機関として有効に機能しています。
これとは別に組織される豊橋鬼祭奉賛会は、地元名士の方々より祭りを支え奉賛する組織として設立されています。主に厄除タンキリ飴の飴まき行事や御神宝小判の奉納を行い、かつて吉田藩主が祭りを支え庇護したように、奉賛会長には代々豊橋市長が務めることが慣例となっています 」
――町の組織運営はどのように行われるのでしょうか?
平石さん「祭りにおける町の組織運営はその町ごとに異なります。受け持つ役割の違いにより必要な人員や準備・費用と大きく異なる為で、町の規模も大きく影響します。小さな町では外部の参加者を積極的に受け入れ人員を確保しますが、取りまとめには大変苦労しているようです」
コロナ禍で考えていたこと
――飴は生で撒くわけではないので、コロナ対策になっているという専門家の意見もありました。コロナ禍で鬼祭はどのような対策や動き方をされていたのでしょうか?
平石さん「例年鬼祭は参詣者で境内が埋め尽くされ、からかい神事の間は多くの人がその場に滞留して観覧します。また飴まき行事では人々の接触を防ぐことは困難であり、観客を境内に入れるかどうかは難しい判断となりました。結果として昨年一昨年と無観客、関係者のみで神事を行いました。鬼が境内を飛び出して家々をまわる門寄りは、その鬼を追いかける人々が多く集まり密集することが予想される為、これも中止となりました。
参加する関係者は人数を最低限にとどめ、準備から当日までガイドラインに沿っての活動を徹底し、境内への出入りや待機も他者との接触ができる限り少なくなるよう配慮しました。
コロナ禍以前より地元ケーブルテレビ局による生中継が行われていることから、無観客ながら祭りの様子をお届けすることができたことは不幸中の幸いでした。
来る令和5年2月の鬼祭は社会活動回復が進む状況に従い、有観客での開催とし、境内外での行事も各町の判断で行うということになり規制は緩和しています。しかしながらコロナ禍が未だ終息をみないことから、ガイドラインの徹底に加え、有観客での開催をするにあたり、参加者全員が祭礼前に抗原検査を行うこととなっています」
これからの鬼祭を盛り上げるために
――最近の鬼祭りの傾向として、変わったことは何かあるのですか?
平石さん「かつての写真や映像には所狭しと境内を観客が埋め尽くしている様子が見られますが、娯楽の少なかった昔に比べ、様々な選択肢がある現在ではかつてのような賑わいではなくなったことは仕方のないことかもしれません。先にも述べたように、氏子地域における住民の減少は最も大きく影響をしており、より幅広い地域を巻き込んでの開催することが今後祭りを盛り上げる上で必要になってくるように感じています。
また安全面として雑踏での危険防止は、古くは明石の花火大会、近くは韓国での事故により一層と注意が必要となっており、自主警備員の配置や場内アナウンスによる誘導などの対策を強化しています。また、かつてはお祭りだから無礼講とした粉まきも、配慮しつつ行うようになりました。小麦粉アレルギーの方に対して、事前に避けることができるよう小麦粉を大量に撒く祭りであることを周知することも今後必要となってくると感じています」
――地域の方にとって鬼祭とはどういう存在なのでしょう?
平石さん「世代を超えた人々が集まり町中が結束する鬼祭は、近隣とのかかわりの希薄となった昨今において地域の繋がりを生む大変貴重な場となっています。祭りは二日間だけですが、準備を含め年間を通しての様々な活動が、繋がりを一層のものとしていることは大変に意義深いことと言えます。また、国の重要無形民俗文化財に指定される伝統ある祭りの担い手であることは氏子の誇りとなっています。幾世代と受け継ぐ伝統行事を奉仕することは、自らが歴史の一部になることを実感できるのではないでしょうか」
――3年ぶりの有観客での開催ということで、祭りへの意気込みをお願いします。
平石さん「今回3年ぶりに従来に近いかたちでの開催ということで大変にうれしく思っています。とは言え、コロナ禍は未だ終息しておらず、有観客となる今開催では、より厳重に新型コロナウイルスの感染防止対策を図るべく準備を進めています。
令和の御大典を奉祝して始まった神面の更新事業も既に六面の内五面が完成しましたが、直接のお披露目は令和2年の鼻高(天狗)、赤鬼面までで、コロナ禍の為に滞っていた小鬼、青鬼、宇受賣面のお披露目が今回ようやく叶うこととなりました。コロナ禍を祓いやるかの如き活力あふれる面をご覧いただき、此の年の安寧を共に祈りたいと存じます」