穏やかな七尾湾に浮かぶ能登島。その一角にある向田(こうだ)の町が、年に一度、熱気と巨大な炎に包まれる。伊夜比咩(いやひめ)神社の夏祭り「向田の火祭」だ。地元では古くから「オスズミ祭」の名でも親しまれている。神様が夏の夜、海風に吹かれてお涼みに出かけるという信仰に由来する呼び名だ。

能登を語るうえで、2024年1月に発生した能登半島地震からの復興の歩みは切り離せない。震災の被害と、それ以前から続く人口減少は、向田の人々の暮らしに今も影響を与えている。それでも、祭りを絶やしたくないという地域の思いに、全国から訪れた若者たちが応えようとしている。
目次
祭りの担い手と共に汗を流す、1泊2日のモニターツアー

「向田の火祭」のクライマックスは、伊夜比咩神社からほど近い崎山広場に立つ、高さ約30メートルの大松明への点火だ。人々が一斉に手松明を投げ入れると、巨大な火柱が立ち上がる。大松明が倒れた方向で豊漁・豊作を占う、勇壮な神事である。
祭りの起源は、旧暦6月末の「夏越(なごし)の祓い」や「虫送り」にさかのぼるとされる。明治期の神社の「社務日誌」にも「夏越祭」「納涼祭」の記述があり、穢れを祓い、農作物を虫害や風害から守る神事として受け継がれてきた。一説には、製塩が盛んだった向田で、余った塩焼き用のシバを若衆が燃やしたのが始まりともいわれる。
向田にも少子高齢化と人口減少の波が及び、震災の影響も残る。町の規模は現在、150戸ほど。巨大な大松明を立て、本番で御神火を移す「手松明(てたいまつ)」を作るなど、多くの手を要する作業を地域の人々だけで維持していくことは容易ではない。

そこで、祭りを支える地域外の人々を迎えようと、準備や当日の作業に加わる体験モニターツアーを企画したのが、一般社団法人ななお・なかのとDMOの遠藤敦さんだ。「地域の担い手とまではいかなくても、お祭りを助けていただけるような外の力を得るために、このツアーを2025年から実施しています。お祭りをフックにして復興の様子を知ってもらい、また能登に行きたいと思ってもらえる体験になればと思っています」(遠藤さん)。石川県観光連盟の「いしかわ文化観光コンテンツ造成支援事業」を活用して始まったこの事業は、2027年の旅行商品化を目指している。
2026年7月24日から1泊2日の日程で行われた今回のツアーには、埼玉県の山村国際高校の生徒会メンバー10人、山梨大学の学生3人、昨年に続く参加となった浜松市出身の村木英人さん、馬渕航太さん、杉山星流さんの計16人が集まった。初めて実施した2025年の5人から、参加者は大きく増えた。このほか、向田の火祭には、石川県の「祭りお助け隊」などからも多くのボランティアが参加している。
本番前日、祭りのバトンを受け取る

本番前日の7月24日、向田火祭センターに集まった彼らの最初の任務は、本番で使われる「手松明」作りだった。


「長いの使って。もうちょっと下、そこをグッと縛って、下から上へ」――優しく、そして真剣に指導するのは、「手松明作りの達人」高橋さん。床に並べた小麦のわらに、芯となる竹の棒を置き、稲わらできつく巻き付けて形作っていく。長さ2メートルほどの手松明に、結び目は7つ。高橋さんはわらを縛る手を動かしながら、祭りについて話してくれた。「昔から、お祭りのために自分の役割をこなす、みんなで作る祭りだったんです。でも、今は若い衆も少なくなってしまったから、こうやって若い子らが来てくれるのはありがたいよ」

手松明を束ねる稲わらは、高橋さんが一人で自宅の機械を使い、「わら打ち(わらをたたいて柔らかくする作業)」をして準備したものだ。「30年ほど前から、わら打ちをする人が地域にいなくなってね」と高橋さんは語る。もう一つの材料である小麦のわらも、今では近隣の農家から調達しているという。稲わらの下ごしらえは、いまや高橋さん一人の手に委ねられている。そんな苦労を見せることなく、高橋さんは若者たちが作った手松明を眺め、「だんだん上手になってきたな」とうれしそうに目を細めた。

大松明のもとに、人が集う

手松明作りと並行して、広場では大松明を立ち上げる作業が進む。「オオギ」と呼ばれる芯木に大量のわらやシバを巻き付け、頂に御幣を付けたものだ。子ども、若衆、年配者が編み上げた綱で縛り、クレーンで立ち上げる。さらに「サシドラ」と呼ばれる支え木を斜めに打ち込み、固定すれば完成だ。「松明おこし」に重機が使われるようになって久しいが、かつては人力で立ち上げていたという。

「今日は年寄りたちがたくさん見に来ているな」と話したのは、向田の火祭実行委員会の高橋俊朗事務局長。ボランティアの受け入れにあたり、地域側の取りまとめ役を担う。手松明作りを教えた高橋さんの息子でもある。
「普段は家にいる地域のお年寄りたちが、若い子とおしゃべりをするために外へ出てくるようになったんですよ。去年からボランティアの人たちが来てくれるようになって、そういう変化もありました」と笑う。

「今年は去年にも増して多くの方が手伝いに来てくれて感謝しています。ただ、ボランティアに頼りきりになってはいけないという思いはあります。思えば、震災の後、祭りができるかどうかという議論もありましたが、祭りを実質的に担う壮年団(中学卒業後から40歳までの町内在住男性で構成される組織)が盛り立てて、続けてこられた。さまざまな課題はありますが、一生懸命やる人間が20〜30人いれば、祭りはできるんですよね。彼らがボランティアの人たちに自分たちのいい祭りを見てもらいたい、という気持ちになるのは地域にとって良いことだと思います」(高橋さん)

大松明のたもとには、向田の人々とボランティアの手で、点火の際に着火剤の役目を果たすシバの束が積み上げられていく。このシバも、かつては向田の各戸が7束用意する決まりだった。山に入り、雑木を刈り、枝を集める。シバを集めることは、地域の里山を皆で手入れすることにもつながっていた。現在は各家庭で準備するのが難しくなり、可能な住民が助け合って用意しているという。
今回参加したモニターの一人は、シバを積む光景が心に残ったと振り返る。「地域の人たち全員が、一年に一度のこの祭り、この一つの大松明を誇りを持って作っているんだということが、その光景からまっすぐに伝わってきて、深く感動しました」

子どもたちが作る、神様の座布団「砂団子」

ツアー2日目の朝、参加者たちは七尾湾に面した「Dolphin Smile & iLu Café」へ向かった。SUPやドルフィンスイムなどを提供するマリンスポーツ施設だ。
一行がここを訪れた目的は、海遊びではなく、海辺で“神様の座布団”となる砂団子を作るための「砂取り」だ。祭りの日、伊夜比咩神社の主祭神・大屋津媛命(おおやつひめのみこと)は、神輿に乗って崎山広場の御旅所まで渡御する。石でできた御旅所の台座に砂団子を敷き詰め、その上に榊の葉を載せて神様を迎える――いつから行われているかは分からないが、この準備は長く子どもたちの役割とされてきた。

小学生から中学生までの子どもたちと、彼らを指導する少人数の若衆に交じり、ツアー参加者も穏やかな海へ入っていく。

「海の中で、まだ一度も外の空気に触れていない神聖な砂を集めるんだよ」と地元の少女が教えてくれた。砂取りが大切な神事であることが、今も子どもたちに伝えられている。「しっかり水を絞らないと、運ぶときに重いぞ」と、海辺で世話役を務める向田の男性が声をかける。「僕が子どもの頃はね、こういう砂取りや砂団子作りなんかは全部子どもたちだけでやった。学校帰りにみんなでリヤカーを引っ張って、準備をしとったもんや。今は子どもが少なくなって人手がないから、大人がトラックで運んでやるけどね。だから外から若い人たちが手伝いに来てくれるのは本当に助かるし、ありがたいね。まあ、遊びみたいなところもあるけれど、こうして祭りのやり方が上から下へ伝わるわけでね」

砂を集めていると、部活着姿の中学生たちも自転車でやってきた。桟橋から海へ飛び込んだり、水をかけあったり、穏やかな海を舞台に、笑い声の絶えない作業は1時間余り続いた。


10袋ほどの砂を崎山広場へ運び、次は「砂団子」作りだ。「どのくらいの大きさに丸めればいいの?」と聞く参加者に、地元の少女が「子どもの手の大きさくらいで丸めてね」と答える。海砂を団子にするのは難しいが、地元の子どもたちは手際よくこねていく。


その輪の中には、向田に祖父母の家がある縁で、毎年祭りの時期に島へ来る若者の姿もあった。「僕は壮年団に入ってないのに、ここに来るといろんなことをやらされるし、団長に怒られるんですよ」と、壮年団の若者に交じって実に楽しそうに笑う。祭りの担い手は、組織の名簿だけでは捉えきれない。こうした縁もまた、祭りを支えている。


御神火がつなぐ、祭りの夜

日が沈むと、伊夜比咩神社の境内は、担い手や観覧客で埋まっていた。
境内には、神輿を先導する奉燈(キリコ)が居並ぶ。向田には、かつての年齢別の子ども組に由来する名を持つ大小7基の奉燈が伝わる。近年、実際に運行される基数は年によって異なるが、一基一基に固有の名があるという。民俗学者・小倉学の『祭りと民俗』(1984年)を頼りにその由来をたどると、それは向田で年齢別に組織されていた「組」の名前と関わるもののようだ。
・サキドラ:奉燈の列の先頭を進む、最も大きな奉燈。「ドラ」は「ドロ(灯籠)」という意味だとされる。祭りの中心を担う壮年団の全員が担ぐ。
・カマヒバシ:小学4・5年生が担っていた小さな奉燈。形が塩釜の火箸に似ていることから名がついたとされる。子どもたちは奉燈洗いや竹切りに加え、神輿を迎える場所に清めの砂を用意する仕事も担った。
・シンドラ:サキドラに次ぐ大きさの奉燈。壮年団を退いた人々が担い、子どもたちのカマヒバシとフジキリの間を進んだ。
・フジキリ:小学6年・中学1年生が担った小さな奉燈。かつて、奉燈の担ぎ棒を縛る藤づるを切り集めた仕事に名が由来する。手松明作りでも中心となって働いた。
・マーカイ:中学2年生の組が持つ奉燈。「馬飼い」を意味し、かつてこの年代が馬の世話をしたことに由来する。祭りでは年下の子どもたちをまとめ、綱作りや大松明を立てる作業などを支えた。
・ハヤシカタ:中学3年生の組が持つ奉燈。名前は「囃子方」を意味する。担い手は笛や太鼓、鉦を演奏し、祭りの道中に囃子を響かせた。
・アトドラ:奉燈の列の最後尾を進む「アトドロ(後灯籠)」。当時は職人たちの集まり「太子講」の人々が担ったそうだ。
同書によると、7つの奉燈の巡行における順番は、子どもの組同士の争いを防ぐため、小さな奉燈の前後に、ほかの組が担う大きな奉燈を配置した結果だという。奉燈の名前と隊列には、そうして祭りを支える人を育ててきた、地域の仕組みが表れている。

やがて火祭神事で御神火を移された神輿が境内から出ると、奉燈も続いて隊列を組む。奉燈の明かりが闇の中に揺れながら崎山広場へ進む光景は幻想的だ。



広場に到着した神輿と奉燈は、大松明の周囲を7周、厳かに練り歩く。手松明の7つの結び目、各戸が準備してきたシバ7束、そして大松明を巡る7周。祭りの各所に「7」という数が繰り返し現れるのも興味深い。

御旅所での神事の後、御神火は神輿から会場に用意された火床へ移される。夜の闇にそびえる大松明を囲み、いよいよ点火が始まる。


点火には、地元住民だけでなく観光客も加わることができる。人々は順番に並び、若衆の案内のもと、火床から手松明へ火を移していく。用意された250本の手松明が赤々と燃え、火の粉が夜空を舞う。モニターツアーの参加者たちも、自分たちで作った手松明を頭上に掲げ、大松明を囲む炎の輪に加わった。輪は二重になり、手松明の燃える煙と匂いが広場に渦巻いた。


ほどなく、笛の合図が鳴る。大松明に火を移す時だ。大松明のたもとに積まれたシバを目がけ、次々に手松明が投げ入れられる。好天に恵まれ、よく乾いた柴は一気に燃え上がった。夜空を赤く焦がす、高さ30メートルの巨大な火柱が立ち上がる。熱気が頬を打つ。観衆から歓声と拍手が湧き起こった。

やがて大松明の四方に張りわたしたハリヅナが切れると、火柱が傾く。向田の人々は、大松明が倒れた方向によって、その年の豊漁・豊作を占ってきた。地響きを立てて大松明が倒れたのは海側。2026年は豊漁の年となるだろう。先端の「御幣(ごへい)」を取り外そうと、男たちがすかさず炎の中へ飛び込んでいく。御幣には延命息災をもたらす力があるとされ、持ち帰った人は大切に神棚へ飾るという。
炎が消えるまで――翌年へつなぐ、祭りの仕事

しかし、若衆たちの仕事はまだ終わらない。ボランティアにも声をかけ、倒れてなお燃え続ける大松明から、オオギ(芯木)とサシドラ(支え木)を引き出す。取り出した木材は、翌年の火祭まで池に沈めて大切に保管される。一度の祭りで燃やし尽くさず、翌年へ受け継ぐ祭りの知恵だ。



引き出す、と言葉で言うのは簡単だが、大松明は全体で重さ約10トンともいわれ、オオギ(芯木)もサシドラ(支え木)も相当な重さがある。リーダーの指示のもと、木にかけたロープを若衆やボランティアが全力で引く。燃え盛る炎を前に、右へ左へと駆け回り、一心不乱にロープを引く姿は鬼気迫る。昨年に続いて参加した村木さんと杉山さんは、「去年もやったので、今日は少しマシな動きができた気がする。だんだんみんなの息が合ってきて、すごく一体感を感じてます」と、汗だくの頬を、すすの付いた腕で拭っていた。

広場の炎は、その後、消防や地元の人々の手で消火される。一方、奉燈は神輿と共に往路を戻り、神社へ向かう。多くの観光客がいた往路より、やや静かに感じられる。神様を厳かに本殿へお還しし、祭りが無事に終わったことへの感謝を捧げたところで、モニターツアーも終了となった。

「ただいま」と帰る人を増やすために

遠藤さんは、参加者を一度きりの観光客で終わらせず、祭りと地域に関わり続ける人を増やすことが大事だと話す。祭りを観光商品として消費するだけでは、未来にはつながらない。祭りは地域にとって神聖な営みであり、奉仕的な労働を伴う現場でもある。だからこそ、祭りや地域に思いを持つ人に深く関わってもらうことが、祭りを継承するうえでも、地域の意欲を保つうえでも大切だ。
遠藤さんが描くのは、ツアーをきっかけに生まれた関係がその後も続いていく未来だ。目標は、「毎年1回、祭りの時期になると、自分の実家に帰るかのように能登島にやってきて、地域の人たちと『ただいま』『よく帰ってきたな』と言い合える関係が生まれること」だと話す。

2025年、初めてのツアーに参加した5人のうち3人は、今年再び「ただいま」と帰ってきた。「去年参加したのが忘れられないくらい楽しくて。絶対に来年も来ようと決めていて、今年は自費で参加しました」(杉山さん)。
馬渕さんは、地域の人々の間に入り、一緒に祭りに関わっている感覚に価値を感じたと話す。村木さんも、地道な準備を共にするからこそ、最後に火を見たときの感想の深みが違うと振り返った。

初めてモニターツアーに参加した山梨大学の学生の一人は、燃え盛る炎を見つめていたときの心境をこう語る。「お祭りのための地道な準備作業や、作業の合間にただ火が揺れているのを見つめる静かな時間。そうした空白のような時間も含めて、お祭りを作り上げる地域のリアルな空気感に溶け込んでいる実感がありました。大変な準備に自分たちも一緒に携わらせてもらうからこそ、その過程のすべてが地域を深く知る特別な経験になりました」。

大松明の火は一夜で消える。だが、共に手を動かした記憶と、そこで生まれた関係は翌年へ持ち越される。再び向田へ戻ってきた若者たちの姿に、このツアーが目指す「ただいま」と言える関係の輪郭が見えている。
<向田の火祭をもっと知る>
和倉温泉お祭り会館デジタルミュージアム:https://wakura-omatsuri.com/musium/
ショートムービー「能登島向田の火祭」
デジタル紙芝居「能登島向田の火祭」
能登の祭りに、もっと深く関わってみたい方へ
石川県七尾市の「和倉温泉お祭り会館」では、能登の祭り文化やその魅力を紹介しています。
また、地域では祭りを「見る」だけでなく、祭りの準備や担ぎ手など、実際に祭りを支える活動に参加できる機会も設けています。この記事を読んで、能登の祭りをもっと知りたい、実際に地域を訪れて祭りに関わってみたいと思った方は、ぜひ和倉温泉お祭り会館の情報もご覧ください。

▶「和倉温泉お祭り会館」
公式HP:https://wakura-omatsuri.com/
所在地:〒926-0175 石川県七尾市和倉町2部13番地1
開館時間:9:00~17:00(※入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎月第2・第4水曜日、年末年始
交通アクセス:
- のと里山海道 和倉ICより 車で約6分
- JR和倉温泉駅より 車で約6分
- JR和倉温泉駅より 徒歩約20分
駐車場:大型バス5台、普通車(軽自動車)89台(無料)
公式インスタグラム:https://www.instagram.com/wakura_omatsurihall