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【連載】マツリを訪ねて見えたこと —継承のリアルをめぐる— <第3回>それでも祭りを続ける理由

2026/9/25
2026/9/25
【連載】マツリを訪ねて見えたこと —継承のリアルをめぐる—  <第3回>それでも祭りを続ける理由

いま祭りの担い手たちはどういった危機に直面しているのか。そして、何を思って祭りの継承に取り組むのか。北は北海道から南は奄美群島まで、各地の祭りを取材し続けるお祭りライターの小野和哉が、担い手たちへの聞き取りを通じて見えてきた継承問題のリアルに迫ります。全3回の連載記事です。


なぜ祭りは必要なのか

日本各地を巡って、祭りの継承問題について取材してきた2年。その活動の原点となったのは、「なぜ人々は祭りをするのか」という疑問だ。祭りを続ける上で課題だらけの現代。それでも、祭りに取り組むモチベーションとは何なのか、それが知りたくて祭りの現場に足を運び、人々の声に耳を傾けてきた。「五穀豊穣」「疫病退散」「地域繁栄」……祭りにはさまざまな大義名分が掲げられる。そういった大きな祈りももちろんあるのだろうが、担い手たち一人ひとりの胸に抱える固有の思いというものもあるはずだ。

「無病息災」を掲げる灯篭。とある祭りにて

とある祭りで、有形民俗文化財として登録されている立派な日本家屋を管理する方に出会った。行きがかりでその家屋にまつわる話をいろいろと聞かせていただき、最後に「素晴らしいですね、ぜひこれからも大切に守っていってください」と何気なく伝えたところ、「そう思うのなら、一度ぜひ掃除にでも来てください」といった趣旨の言葉を返され、ドキリとした。その言葉の真意を確かめたわけではない。だが伝統の担い手にとっては、余所者の無邪気な応援の言葉が、あまりにも無責任に響くこともある、そう思い知らされた出来事だった。

伝統を受け継ぐということは決して簡単なことではない。地域の方々はそれ相応の責任を負いながら、時間や体力、お金を捻出して祭りを支えている。担い手の中には好むと好まざるに関係なく、やむなき事情で祭りに参加している人もいるかもしれない。「伝統=守るべきもの」という自明視された価値観を押し付けるだけでは、今後も担い手は減っていくばかりではないだろうか。

継承の危機を迎えながらも立ち上がり、祭りの復興を実現している人々がいる。そうした人々に共通するのは、祭りを必要とする明確な理由を持っていることだ。伝統を伝統として受け止めながら、そこに自分なりの「やりがい」や「使命感」を見出し、取り組んでいる。連載の最終回となる今回は、そういった担い手たちの強いモチベーションによって支えられている祭りを紹介したいと思う。

 

外部ボランティアを受け入れ進む「向田の火祭」

石川県の能登半島では、毎年7月から10月にかけて「キリコ祭り」という祭礼が各地で行われる。「奉燈(ホートー)」「お明かし」などとも呼ばれる巨大な切子灯籠を担いだり、山車のように曳いたりして盛り上がる。まさに能登の夏の風物詩だ。

石川県能登町宇出津の「あばれ祭り」 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/ CC-BY-NC-SA-4.0/

そんな能登半島を2024年、未曾有の災害が襲った。2024年1月1日の能登半島地震。最大震度7を観測し、住家被害は全壊8千棟以上を含む約8万4千棟、避難者は最大で約3万4千人にのぼった。そこに追い討ちをかけるように、同年9月には能登半島北部を記録的な豪雨が襲い、河川氾濫、浸水被害、土砂災害などが発生し、被害はさらに拡大した。

この災害によって、2024年、能登半島の多くの地域では祭りの開催を断念せざるを得なくなった。能登を象徴する祭りであるキリコ祭りに関しても、一部の地域ではクラウドファンディングによる資金調達などを行い実施にこぎつけることができたが、やはり大半の地域では中止を余儀なくされたという。

こうした事態を受け、石川県では災害のあった2024年より、祭りの開催を支援する助成金制度を開始した。さらに2025年からは資金面だけでなく人的サポートも行おうと、「祭りお助け隊」という制度をスタート。担い手不足に悩む地域と、祭りを支援したいボランティアを県が仲介し、マッチングを図るという試みを始めた。

「石川県りお助け隊」のホームページ(2025年閲覧)

祭り支援のために、行政が仲介して地域とボランティアをつなげるという仕組みは、福岡県の「地域伝統行事お助け隊」を先例としながらも、まだまだ全国的には珍しい試み。そこで私は、2025年の夏に、祭りお助け隊が参加する祭りの一つ、能登島の「向田(こうだ)の火祭」を取材することにした。

地元の人から松明の作り方を習う学生参加者たち

「向田の火祭」の開催される能登島もまた、2024年の災害で大きな被害を受けた地域。地震によって本土と島を結ぶ橋が通行不能となったり、5つの集落で多くの家屋が全半壊、さらに「のとじま水族館」や道の駅が営業を停止するなど、島の観光産業にも大きな打撃があった。

話を伺った火祭実行委員・高橋俊朗さんによると、向田の火祭りも当然、開催が危ぶまれたそうだ。議決権を持つ住民51名で決を取った結果、賛成27票・反対24票という紙一重の差で開催が決まったのだという。向田の火祭りはすでにコロナ禍で2年間の中止を経験しており、「今回中止となれば、次の再開はいっそう難しくなるのではないか」という危惧が高橋さんの中にはあったという。

「何もやらないという選択肢の先には、縮小しか待っていない」そんな信念を持つ高橋さんは、2025年の向田の火祭で実験的な取り組みを次々と推進していった。これまで地区内の寄付だけに頼っていた運営資金は、外部からの義援金も募るように。さらに電子回覧板を導入し、地元を離れて暮らす人にも祭りなど地域の情報を届け、応援を得やすくする仕組みも整えた。祭りお助け隊の受け入れを決めたのも、その流れの延長線上にあった。

火祭実行委員の高橋俊朗さん

向田の人たちにとって、祭りは地域に欠かせない行事だった。しかし当たり前にあるものだったからこそ、「なぜ自分たちは祭りをするのか」という言語化ができていなかった、と高橋さんは話す。そんな高橋さんにとって祭りをする理由とは、地域の「子どもたち」の存在だという。

「僕たちは、何のために祭りをやるんだ? 子どもたちが楽しみにしているからだろう、と。だったらやろうよって思うんです。子どもたちが楽しみにしているのに、大人の都合で祭りをやめるのはカッコ悪いと思うんですよね」

新しい取り組みには、地域からの反発も少なからずあるだろう。それでも高橋さんが祭りを諦めないのは、確固たる「祭りをする理由」を持っているからだ。

「祭りをする理由」それは地域によっても、担い手によっても一人一人違うはずだ。「伝統」という言葉が強度を失いつつある現代。私たちはもう一度、「祭りをする理由」を主体的に見出す必要が出てきているのかもしれない。

 

地域の過去と未来を結ぶ「新野の盆踊り」

一度郷里を離れたものの、ふとしたきっかけから地元の盆踊りに関わりを持つようになり、積極的にその継承に取り組んでいる女性がいる。長野県阿南町新野に伝わる「新野の盆踊り」で音頭取りを務める金田渚さんだ。

新野の盆踊りとは、毎年8月14日から16日にかけて行われ、夜9時頃から翌朝まで踊り明かす、全国でも数少ない徹夜踊りの一つである。その歴史は約500年に及ぶと伝えられ、2022年には「風流踊」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録された。太鼓や三味線などの鳴り物を使わず、ヤグラの上に立つ音頭取りの生歌だけで踊るのが大きな特徴だ。

音頭取りが歌えば、踊り手たちが掛け声や歌で応える。その掛け合いによって、会場には独特の一体感が生まれていく。最終日の夜から翌朝にかけては、新盆を迎えた家の「切子灯籠」を運び、死者の魂を送り出す「踊り神送り」が執り行われる。踊り手たちは、灯籠の行列を通すまいと肩を組んで輪をつくり、激しく踊る。しかし、最後にはその輪を解き、行列を瑞光院というお寺の広場まで見送る。灯籠はその場で燃され、踊り子たちは振り返ることなくそこから立ち去る。新野の盆踊りは、娯楽としての楽しさと死者を弔う祈りが一つになった、生と死の交差する祭りなのである。

切子灯篭の行列が通り過ぎると祭りが終わってしまうので、踊り子たちが輪を作って通せんぼをする

 

瑞光院の広場で切子灯篭を潰して燃やし、死者の霊を送る

1991年生まれの渚さんは、歩けるようになった2歳頃から、音頭取りだった祖父に連れられてこの新野の盆踊りに参加していた。最初に踊りに触れたのは、亡くなった音頭取りの家の前に集まり、歌い踊って故人を送る「物故者供養」という行事の時だったという。本人の記憶に残るよりも前から、盆踊りは弔いとともに生活の中にあった。

父親の仕事で各地を転々とした後、小学5年生で新野へ戻ると、祖父が発起人となった「郷土芸能子ども教室」に参加した。踊りや音頭だけでなく、地域の祭りや風習、昔話を学ぶ中で、盆踊りの背景にある意味を知り、音頭への関心も深めていった。中学卒業後は進学のため小諸市へ、卒業後は就職のため長野市へ移ったが、毎年お盆には新野へ帰り、踊りの輪に加わり続けた。

踊りの輪の中で歌う金田渚さん(写真中央) 撮影:金田誠

転機は2018年。先輩から音頭取りにならないかと声をかけられた。当初は、好きで楽しんできた盆踊りが「やらなければならないもの」に変わり、嫌いになってしまうのではないかという不安もあった。それでも、関わるなら自分にできることを最大限にやろうと考え直し、音頭取りになる決意をした。

以後は父・信夫さんらとともに、県内でのワークショップや、新野の文化・自然・移住情報を発信するウェブサイトの運営に取り組んだ。地元の人に魅力を伝えるため、盆唄や生と死が織り込まれた祭りの世界を演劇にした短編劇『新野物語』の制作にも関わった。コロナ禍を機に生活の軸足も新野へ戻し、地域で暮らしながら活動を続けている。

舞台『新野物語』の一幕 撮影:安徳希仁

その思いを決定的にしたのが、音頭取りとなった翌年、2019年の物故者供養だった。集まった約30人の中で、自分が明らかに最年少だった渚さんは、先輩たちをいつか自分が送るのだと実感し、世代をつなぐバトンを受け取ったように感じた。同時に、自分もいつか同じように踊りで送られたいと思ったという。

さらに2020年、コロナ禍で公式の盆踊りが中止された際には、「なんとかしてでも踊らなければ」と有志数人で踊り会場近くの駐車場に集まり、小さく踊った。新盆を迎えた家の女性から「これで、やっと送った気持ちになれた」と告げられたことで、盆踊りは形や規模のためにあるのではなく、土地に暮らす人の心に区切りをつけ、死者と生者をつなぐためのものなのだと、改めて気づかされた。

コロナ禍で盆踊りは公式では中止となったが、有志のメンバーのみで自主的に踊りが行われた 提供:金田渚

渚さんにとって祭りの継承は、古い形式をそのまま守ることだけではない。自分が受け取った楽しさと意味を、その時代に合う方法で次の人へ手渡していくことだ。幼い日に祖父の背中を追って入った踊りの輪は、いまや彼女が地域の過去と未来を結ぶ場所になっている。

 

それでも祭りは続いていく

祭りの担い手となって汗を流した経験もない私が、祭りの継承についてあれこれ意見を述べるのは憚られる。それでも、全3回の連載を通じて、全国の祭りを見聞きする中で感じたことや、地域の人たちのリアルな声をいろいろと紹介させていただいた。継承問題が抱える多様な側面を、少しでもお伝えできていたら本望である。

混沌としていく社会の中で、祭りという営みを続けていくことは一層の困難をともなってきている。少子高齢化の止まらないこの国で、どうやって祭りを続けていくことはできようか。一人の祭り好きとして、ときに虚無的な気分に陥りそうになることもある。それでも祭りというものに関わり続けたいと思わせられるのは、どんな形であっても祭りを背負って生きている人たちの声というのはとても魅力的であるからだ。芸能ではなく、人間そのものに価値がある、それが祭りというものではないだろうか。

綺麗事ばかりの世界ではないが、それでもどこかに希望を見出して、私自身も引き続き祭りの取材を続けていきたいと思う。それでも、やはり祭りは続いていくのだ。

【関連情報】※外部サイトに遷移します。

https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-15

https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-16

https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-11