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秋田市竿燈会会長に聞いた! 秋田竿燈まつりのディープな魅力とは<第一回 竿燈まつりの歴史編>

2022/8/2
2022/8/4
秋田市竿燈会会長に聞いた! 秋田竿燈まつりのディープな魅力とは<第一回 竿燈まつりの歴史編>

日本には30万のお祭りがあると言われています。全国各地の多種多様なお祭りの魅力を知っていただき、ぜひ旅行を通じて全国の町に行っていただきたい、そんな思いから「祭りで日本を盛り上げる」をテーマに活動をする株式会社オマツリジャパンとクラブツーリズムが連携し、全国のお祭り情報を発信していくこととなりました。

今回取り上げるのは8月3日より開催される秋田の「竿燈まつり」。秋田を代表するお祭りともいわれるこの祭りの歴史から現在に至るまでの発展過程について、全3回の記事で紹介していきたいと思います。ナビゲーターは株式会社オマツリジャパンの大山 勝廣(おおやま かつひろ)、そしてゲストは秋田市竿燈会の加賀屋 政人(かがや まさと)さんです。

写真左:株式会社オマツリジャパン 大山 勝廣、写真右:秋田市竿燈会 加賀屋 政人

また、この記事の模様は動画でも視聴することができますので、ぜひこちらもチェックしてみてください! 第2回目以降の動画は、クラブツーリズムPASS会員限定コンテンツとなっておりますので、これを機にぜひ入会をしてみてはいかがでしょうか!?
※第1回目の動画はどなたでも無料で視聴可能です。無料公開期間が過ぎますと視聴にはクラブツーリズムPASSへの入会が必要となりますので、あらかじめご了承ください。

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竿燈まつりの起源は、七夕行事の「ねぶり流し」

大山 :まずはですね、そもそもそもこの竿燈まつりっていつどのように始まったのかというのを教えていただきたいなと思うんですけれども。

加賀屋:はっきりと何年からというような資料は残されておりませんが、大体270年くらい前の江戸時代に始まったとされております。

江戸時代に書かれてた絵を見ると、今の竿燈らしきものを職人さんたちがですね、ふんどし一丁の姿で持ち歩いてるような絵が描かれてるんですね。

また竿燈まつりそのものは、昔は「竿燈まつり」とは言われていませんでした。東北地方の七夕行事である「眠り流し」、それが秋田弁になまって「ねぶり流し」と言われるようになったのですが、その「ねぶり流し」がどうも起源じゃないかなというふうに言われてます。

大山 :ねぶり流しというのは、元々どういう意味を込めた行事だったんですか。

加賀屋:夏になると、どうしても眠気が襲ってきます。そんなときに体の中に妖魔や邪気が入らないように眠気を流すという意味が込められていたそうです。

大山 :ねぶり流しについて、私も調べさせていただいたんですが、七夕の季節に、まさにお盆の行事として開催されていたそうですね。

(画像:写真AC)

加賀屋:今の七夕の行事では、短冊に願い事を書きますよね。昔もそのような形で、地口という四角い灯籠に「七夕」、もしくは「病魔、邪気が入らないように」とか、「五穀豊穣」なんかの文字が書いて、その灯籠を子供たちが担いで、それに5色の色紙の短冊をつるして、そこには願い事も書かれていたかもしれないですが、竹竿にくくりつけて持ち歩いたそうなんです。

その時に「ねんぶり流し、流したよ」っていうふうに言いながら、お囃子を鳴らしながら練り歩いて、最後に川にながす。それが「ねぶり流し」行事と言われてます。

庶民の力比べが拡大して盛大なお祭りへと成長

大山 :そういった庶民の小さな行事が、どうしてこのような大きなお祭りになっていったのでしょうか。

加賀屋:七夕というのは、今でいうと77日ですよね。昔は旧暦だったので、1カ月遅れの87日が七夕だった。それからもう6日も経つとお盆ですよ。お盆の13日。その頃は、江戸時代なんですけど、先祖の霊を迎え入れるために、各家々の門前に高い灯籠を建てたんです。

今でいう迎え火を焚くみたいな。杉の木のてっぺんにですね、横木を結んで、そこに昔はロウソクがなかったので、油灯(あぶらあかり)、油の中に針を入れてそこに火をともして、それで提灯を上からぶら下げた。これを力自慢の職人さんたちが取り外して、持ち歩くようになったんです。

そして競い合ううちにですね、2個だった提灯が、10個になり、20個になり、30個にも40個にもいっぱいつけて持ち歩くようになったのが、現在の形とはちょっと違うんですけど、それが竿燈のルーツだと言われています。お盆の行事と、七夕の行事が合わさって、現在の竿燈のような形になったのではないかなと。

大山 :なるほど。あとやはり江戸時代なので、大名なども、いろいろとお祭りも影響を及ぼしてたりはしませんか。

加賀屋:元々この秋田の中心部はですね、江戸時代は「久保田」と言われていました。慶長7年ですから、今から420年ほど前に、今の茨城県、常陸の国から佐竹の殿様が初代藩主として秋田に来たんですね。それが佐竹義宣公といいいます。

そのお殿様が中心部にお城を築き始めました。今の千秋公園というところの上に、久保田城を作ったんですね。そして、当然お城の周りにはお堀があります。内堀があって、そのすぐ下には侍が住む町、「内町(うちまち)」があって、さらに外側には外堀があります。その外堀の役目を果たしていたのが、現在の秋田市中心部に流れている旭川です。その川よりも西側に広がる街を「外町(とまち)」といいます。外側の町なので「外町」。ここが、この「ねぶり流し」が「竿燈まつり」に至るまでの、その発祥の地ではないかと言われています。

大山 :侍の町ではなく、商人の町、それから職人の町がいた外町が祭りの発祥なんですね。

加賀屋:そうなんです。ですから、ここ(外町)で行われていた力自慢たちの力比べという形で始まったお祭りじゃないかなというふうに思います。

大山 :力比べから始まり、そして現在に至るまで具体的にはどのような変化をたどっていったのでしょうか。

加賀屋:江戸時代、外町には38の町内がありました。それぞれの町内からねぶり流しが出されていたんですけれども、喧嘩だったり、それからいざこざがあったりして、お殿様からうるさいと、ただ騒ぐだけのお祭りならやめろって言われたこともあるんです。

そんなこんなしてるうちに、今度は9代目藩主、佐竹義和公が秋田入りしたということもあって、このねぶり流しも盛大に行われるようになりました。

その頃の「ねぶり流し」行事の様子もまた文献に残されております。その文献によりますと、当時のお祭りの様子は、一旦ですね、各町内から出てきたねぶり流しが、通町橋のたもとに集結して、お城に拝礼したそうです。

そして通町から大町通りに入るところに大きな門があったんですね。そこをくぐって雄物川まで練り歩いていったと。その文献には書かれています。

現在は74団体、約280本の竿燈が夜空に上がる

加賀屋:そのうちに、会場が外町から内町に追いやられたり、38の町会が4〜5町会に減ってしまったり、いろいろとすったもんだはあったのですが、現在は外町を会場に、従来の38町会に加え、学校や企業の団体が36、合わせて74団体が、それぞれ大きい竿燈やら、ちっちゃい竿燈やらを出しています。全部で竿燈の数は280本ぐらいです。

合同練習の様子

大山 :歴史的に、今がまさに秋田竿燈まつりの最盛期と言えるかと思うんですけれども、この祭りを現在取りまとめられているのが、秋田市竿燈会の加賀屋さんなんですね。

加賀屋:秋田市竿燈会そのものは、発足したのが昭和6年なので、今年で91年目を迎えます。途中戦争があったりして、竿燈が中断した年もありました。それと最近はコロナのために2年間中止になってしましたが、中止となったのは戦争以来です。70何年ぶりの中止を経て、今年(2022年)は開催できるで運びとなりました。

危険を冒して繰り出される5つの技で観衆を魅了!

大山 :続いて、竿燈の種類や特徴についても、お伺いできればなと思いますが、お祭りのときには町に280本の竿燈が登場するということなんですけれども、竿燈には三つの種類があるとお伺いしました。

加賀屋:まずは大人用の竿燈で、「大若」といいます。重さが50キロ、長さが約8メーター、下に1メーター20センチほどの竹を継ぎ足していくと、17、8メーターにもなり、ビルの3階建て4階建てぐらいまでに達します。提灯の数が46個。これが大人用の竿燈です。

そして、ちょっと小ぶりになると「中若」となります。これも提灯の数は46個なんですけど、小若用の提灯がついているんですね。ぱっと見には大若に見えるんですが、中若といいまして、中学生用の竿燈です。

それから更にちっちゃくなって、小学生用の竿燈で「小若」といいます。ここには、提灯が24個ついております。重さが約10キロですね。

さらにちっちゃくなって幼稚園児用のものもあります。幼稚園の幼って書いて「幼若」。幼若もちっちゃい竿燈なんですけど、重さは約5キロ。提灯は24個ついてます。

大山 :なるほど。その各種ある竿燈を使って、お祭り当日は、様々な技を町会の方々が披露するということになると思うんですけれども、五つと技があると伺っています。それぞれ特徴を教えていただけますか。

加賀屋:これから竿燈演技を始めるぞというときに、竿燈を起こします。持ち上げた竿燈に、1メーター20センチほどの継ぎ竹を1本たします。それをゆっくりと持ち上げていくんですけど、自分の顔よりも上のところまで、平手に乗せながら、一旦掲げ上げます。そしてギュッと握ってですね、指と指の間から少しずらし下ろしていきます。ここで固定させるんです。この後の技に繋げるために、竿燈を抑えなければいけない、安定させなければいけないという重要な技で、名前を「流し」といいます。これが一つ目になります。

二つ目、次の選手がですね、2本目の継ぎ竹を差し込みます。すべて受け渡しは片手で行います。2本目の継ぎ竹を差し込んで、また手のひらの上にのせます。今度は「平手」という技で、手のひらだけで固定します。もう力技ですね。手の力で竿燈を固定するわけですから、一番高いところまでさし上げるので。華やかな技だし、力技というところです。

そして一旦また次の選手に渡すときに、握りしめて指の間からずらし下ろして、そして次の選手がまた平手で受けて、今度はずらし下ろしてきたときには額のハチマキの上に乗せます。眉間のちょっと上。おでこの中心部。これがちょっとずれたりすると、目にずり落ちてきたりして大怪我のもとです。鼻に落ちて、鼻の皮がむけてしまった人もいます。これが「額」という技になります、

大山 :50キロが載っているんですもんね。

加賀屋:はい。今度はずらし下ろしてきた竹を片手でまた取って肩に、みなさん肩凝ったときに揉んでもらう筋肉の部分、首の付け根の辺りに乗せます。これがずれて鎖骨に乗ったときにはですね、また皮がむけて、大変なことになります。ヒリヒリしてお風呂に入れない。このように首の付け根に乗せるのが、「肩」というわけです。

最後の技がですね、やはり肩から外して、次の選手が平手で受けて、指と指の間からずり下ろしてきて、今度は腰に乗せます。帯の結び目の上のあたり。目線から離れるので非常にバランスがとりにくい技で、高難易度ですね。ベテランにならないと、なかなかでできない技になっています。「腰」という技です。

以上が五つの技になります。

大山 :なるほど。これらの技を、83日から6日までの4日間、秋田の市街地で、各町会が場所を決めてそこで披露するというのが、お祭りの一番の見所にところになってくるということですね。わかりました。第2回以降では、まさに秋田竿燈まつり当日の流れだったり、どういう見どころがあるのか、ところについても詳しくまたお伺いできればと思います。

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