※2020年は新型コロナウイルス蔓延の影響で赤穂義士祭におけるパレード、会場行事については中止となりました。義士追慕の祭典及び法要については、大石神社、花岳寺においてそれぞれ実施されます。2021年には無事に開催されることを願いつつ、コロナウイルスの終息のために感染予防を心がけましょう。(2020年12月9日 編集部)
(この記事は2019年に公開されたものを再編集しています。2020年12月9日 編集部更新)
目次
2019年で第116回を数える赤穂義士祭
「忠臣蔵」は日本人の胸を打つ歴史物語として、時を超えて語り継がれています。ストーリーの発端は江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、江戸城殿中の松之廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことです。その後、赤穂藩の義士達は各々の人生をかけ、主君の仇を討ちます。元禄15年12月14日(1703年1月30日)に、本所の吉良邸に討入り本懐を遂げます。この12月14日には毎年、赤穂義士にゆかりの各地で様々な催物が行われています。中でも赤穂義士祭は最大級のイベントで、2019年で赤穂義士祭は第116回を数えました。
赤穂義士祭の歴史的背景を紹介する「忠臣蔵名場面の山車」のパレード
毎年、赤穂義士祭のフィナーレを飾っているのは「義士行列」ですが、その直前に「忠臣蔵名場面の山車」のパレードが行われます。「忠臣蔵」のストーリーの中で欠かせない場面が、車上で再現されます。パレードに従ってストーリーを追うと、「忠臣蔵」の物語がよみがえり「赤穂義士祭」の歴史的背景を整理することができるのです。
「忠臣蔵名場面の山車」の第1場「殿中刃傷の場」
最初に登場するのは赤穂事件の発端となった「殿中刃傷の場」です。日頃の誹謗中傷に耐えかねた赤穂藩主の浅野内匠頭が、江戸城殿中の松之大廊下で吉良上野介を切りつけてしまいます。
「忠臣蔵名場面の山車」の第2場「田村邸切腹の場」
江戸城殿中での刃傷沙汰によって浅野内匠頭は、徳川幕府第5代将軍綱吉から切腹の処分を言い渡されました。浅野内匠頭は芝愛宕下に上屋敷を構えていた奥州一ノ関藩、田村右京太夫のもとに送られ、即座に刑が執行されました。「田村邸切腹の場」では、幕府の役人の前で自らの腹に刀を向ける浅野内匠頭が再現されています。
「忠臣蔵名場面の山車」の第3場「城明渡しの場」
浅野内匠頭の切腹と同時に浅野家の赤穂藩は改易となり、永井直敬に赤穂城を譲ることになりました。「城明渡しの場」では、何の混乱もなく城の明渡しが行われる様子が描かれています。
「忠臣蔵名場面の山車」の第4場「神崎東下りの場」
赤穂城を明渡した後、赤穂の義士達は仇討の機会を探りながら全国各地で暮らしていました。神崎与五郎は、大石内蔵助の密命を受け京都から江戸に向かいます。「神崎東下りの場」では箱根の茶屋で峠の馬方に言いがかりをつけられた神崎与五郎が、身分を明かさぬよう耐え忍んでいます。
「忠臣蔵名場面の山車」の第5場「祇園一力茶屋の場」
各地の赤穂義士達が仇討にはやる一方で、赤穂藩で筆頭家老を務めた大石内蔵助は、京都の祇園で浮太夫と呼ばれていました。一力茶屋などの茶屋で遊興三昧の生活を送り、仇討の計画などないことを世間にアピールしたと伝わります。「祇園一力茶屋の場」では大石内蔵助の浮太夫ぶりがリアルに表現されています。
「忠臣蔵名場面の山車」の第6場「りくとの別れの場」
浮太夫の評判をすっかり定着させた大石内蔵助ですが、主君の切腹から1年あまりの月日を経て仇討の実行を決断しました。本懐を遂げた後、妻子の身の安全を保つため、妻りくとは離縁をします。「りくとの別れの場」では、二度とは会えぬ最愛の妻子を見つめる大石内蔵助の姿から深い哀しみが滲み出ているようです。
「忠臣蔵名場面の山車」の第7場「討入りの場」
妻りくと別れた大石内蔵助は、続々と赤穂義士が揃いつつある江戸に向かいます。47名の同志達と仇討の計画を綿密に練り上げ、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良邸で仇討の本懐を遂げます。「討入りの場」では吉良家の家来に立ち向かう赤穂義士が描かれています。
赤穂義士祭のプログラムの一つ、「忠臣蔵名場面の山車」のパレードでは、1903年から行われ続ける赤穂義士祭の歴史的背景をリアルに物語られます。パレードが行われている間、市内は赤穂事件の元禄絵巻に包まれます。