奥美濃の小京都という異名を持つ城下町「郡上八幡」。古い町並みを背景に毎夏開催される郡上おどりは、全国的な知名度を誇ります。
通説によると、郡上おどりは400年の歴史があるとされている盆踊りです。しかし、その歴史の多くは未だ謎につつまれているまま。また、明治・大正時代には存続の危機に瀕したことも。
そこで今回の記事は、現存する文献や考察を通じて郡上おどりの歴史に迫ることが目的です。おどり種目が10曲もあることや開催日数が30夜以上ある理由、そして「徹夜おどり」の由来がこの記事で明らかになります!
本当に400年前に始まったの?起源説を検証!
郡上八幡における盆踊りはいつ始まったのか?文献が存在しないため断定することはできませんが、一般的には江戸時代に郡上藩の藩主が領民の融和を図るために奨励したのがきっかけだとされています。
しかし興味深いことに、実際の年代については資料によって100年以上のばらつきがあることを指摘しなければなりません。
例えば、郡上八幡観光協会のHPから見つけることができる「郡上おどり大百科」(郡上おどり保存会監修)では、1600年ごろに初代藩主の遠藤慶隆によって始められたとされています。しかし、文化財のデータベースでは、最初に催されたのは寛永年間(1624-44)だという記述が。さらに、郡上おどり保存会が出版した「郡上おどりの本」によると、第3代藩主の遠藤常友が1667年に行われた城下町整備の後に奨励したそうです(1998, 2)。最後の例として、日本民謡大観・中部編では1758年に青山幸通が郡上に移封した後に始まったと考察しています(1993, 438)。
実際はどの時期が正確なのか?郷土史家の曾我孝司氏は、江戸時代初期の郡上八幡には町民があまり住んでいなかったことから、常通時代の町割までは文化振興の余地はなかったと考察しています(2016, 46)。また、江戸市中における盆踊りを公認する通達が1650年に出されていることからも伺えるように、全国的にも盆踊りが盛んになったのは17世紀中期。裏付ける証拠はない中で結論を述べるとするならば、郡上八幡の城下町では少なくとも17世紀の終わりまでには行われていたのではないでしょうか。
江戸時代の郡上おどりはどのようなものだった?
江戸時代初期に全国的に盛り上がりを見せた盆踊りですが、次第に風紀や秩序の乱れを危惧する幕府によって危険視されます。そして1685年に盆踊り禁止令が江戸で公布されたのを筆頭に、多くの藩は盆踊りを抑圧しました。
それに対し、郡上八幡ではお盆の3日間において踊ることが認められており、またそれ以外の日についても届出制を取るなど比較的寛大な対応を取っていました。そのため、城下の人々は地元の寺社の縁日に境内や付近の通りで踊りを楽しむようになります。結果的に幕末にはお盆を含めて7日間開催されるようになり、今日における「七大縁日」の原型となりました。
とはいえ、藩は贅沢や風紀を乱すと判断した参加者や見物客を取り締るなど、盆踊りを監視していたことに変わりはありません。例として、1810年には城下町以外での盆踊りを禁じる御触れが出されています (郡上市 2020, 31)。他にも「名主役中心得書(1840年)」の記載によれば、役人と町の名主が違反者を取り締まるために踊り場を巡回していたそうです。
あともう一つの疑問点として、武家は盆踊りに参加していたのか?
郡上市によれば、1862年に藩士の妻子や家人が参加することを禁じた御触れが出ていることから、この時期には身分の関係なく盆踊りを楽しんでいたそうです (2020, 2-69)。対して曽我氏は実際に士族が罰せられた例は1808年以外になく、また武家屋敷は町屋の対岸に位置していたことからも、関心を寄せていた可能性は低いと考察 しています(36)。
いずれにせよ、郡上八幡での盆踊りについての記録は19世紀まで出現しないため、江戸時代中期以前の盆踊りの様相を知る術はありません。しかし、少なくとも藩の緩和的な政策により、郡上おどりの基盤が幕末までには整っていたことが分かります。しかし、人々の盆踊りに対する情熱が試されるのはこれから。次は明治時代以降の政府による弾圧を見ていきましょう!
郡上おどり最大の危機!明治・大正時代の弾圧と保存会設立
江戸時代までは比較的自由を甘受できた郡上八幡の盆踊りですが、大政奉還以降は事態が一変。前時代的で卑猥な文化と判断された盆踊りは、政府から本格的に弾圧されることになります。具体的には、1874年に岐阜県によって盆踊り禁止令が公布されるのを皮切りに、手踊りや豊年踊りといった民俗芸能が禁じられました。しかし、その後も新聞に盆踊りや祭りについての記載があることから、禁止令は次第に形骸化していったと伊東氏と來太氏は考察しています (2019, 100)。
以上のように政府による圧力の中においても続けられたとされる郡上八幡の盆踊りですが、明治天皇の崩御によって3年間自粛することに。その後、盆踊りを再開しようとした人々ですが、八幡警察署長である和田茂が風紀上問題があるとして干渉します。特に1918年に富山で米騒動が勃発すると、波及することを恐れた署長による弾圧はより一層激化。さらに翌年に町で起きた大火事とそれに伴う自粛が追い討ちとなり、郡上八幡での盆踊りは今まで以上の危機に晒されました。
そのような状況の中、伝統を絶やしてはならないという人々の情熱によって郡上おどり保存会が1922年に発足。卑猥な歌詞や踊りを改めるなど、盆踊りを「近代的」で「健全な娯楽」へと変容させるために奔走します。同時に後任の中西久五郎署長との粘り強い交渉の末、翌年7月にはついに承認を得ることに成功しました。
最後に、保存会発足以後の郡上おどりはどのような進化を遂げたのか、ご紹介します!
昭和以降はどのように変化した?
発足以降、郡上おどり保存会は多岐にわたる取り組みを行いましたが、主に以下の3つに集約できます。
1つ目は踊り種目の選定。忘れられつつあった曲をまとめ上げ、また1936年には「げんげんばらばら」と「さば(後の春駒)」を追加するなど、レパートリーの拡充に努めました。2つ目は、先ほども言及した踊り・歌詞の編集。多様化した踊りを統一し、また1940・41・55年に新たな歌詞を募集することで、踊り場における風紀を改善させます。3つ目は楽器と屋台の追加。以前は音頭取りが中心に立って輪踊りを行うスタイルですが、保存会発足後は三味線などの囃子方が歌い手と共に踊り屋台で演奏するようになります。
この他にも町内の式典で踊ったり、全国へ普及活動を行ったりなど、知名度の向上に尽力しました。また、「七大縁日」以外にも踊りの日程を組むことで、最終的には30夜以上に渡って行われる長丁場なイベントになります。この様な取り組みによって、郡上おどりは「城下町の盆踊り」から「郡上八幡を代表する文化的価値のある民俗芸能」へと変貌を遂げただけでなく、1996年には国から重要無形民俗文化財に指定されたのです。
おわりに
いかがでしたか?現在でも多くの人々に愛されている郡上おどりですが、その歴史からは「伝統を絶やしてはならない」という人々の情熱と意思が感じられたかと思います。2020年の今年はオンラインライブ配信になってしまいましたが、来夏はぜひ郡上八幡に足を運んで、郡上おどりの感動を体験してみては?
本記事は、以下の論文を参考にして作成しました。(順不同)
曽我 孝司 (2016). 郡上踊りと白鳥踊り -白山麓の盆踊り-, 雄山閣.
日本放送協会 (1993). 復刻 日本民謡大観 中部篇(東海地方・中央高地) , 日本放送協会.
郡上おどり保存会 (1998). 郡上おどりの本, 郡上おどり保存会.
伊東 佳那子; 來田 享子 (2019). 盆踊りの禁止と復興に関する歴史的研究 ―岐阜県郡上おどりを事例に―, 中京大学体育研究所紀要 33, 97-103.
伊東 佳那子; 來田 享子 (2018). 大正期の盆踊り復興に関する歴史的研究 ―岐阜県の郡上おどりを事例に―, 笹川スポーツ研究助成研究成果報告書, 67-73.
齊藤 知恵子; 三浦 卓也 (2011). 城下町郡上八幡の町割と構成に関する調査報告 : 絵画史料と文献史料による分析, 都市計画論文集 46(3), 733-738.
郡上市 (2020). 郡上市歴史的風致維持向上計画
郡上おどり大百科 (http://www.gujohachiman.com/kanko/pdf/gujo_odori_words.pdf アクセス日:2020年9月5日)
郡上踊、国指定文化財等データベース (https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/633 アクセス日:2020年9月5日)