日本列島が記録的な暑さに包まれた今年、一番熱くなったのは、祭りを愛する人々だったのかもしれません。青森県は、いずれも100万人以上で賑わう、南部地方最大の八戸三社大祭(はちのへさんしゃたいさい)、津軽地方最大の弘前ねぷたまつり、そして県都青森市の青森ねぶた祭が通常の規模で開催。「お祭り大国・青森」の夏が戻ってきました。
東北有数の港町・八戸市では、多くの市民の底力が街を彩る風物詩「八戸三社大祭」が4年ぶりに通常開催。東北新幹線で東京駅からわずか3時間の八戸。この祭りは八戸のアイデンティティ。八戸市民の会話で「お祭り」と言うと、ほとんどの場合、それは即ち八戸三社大祭を指します。
大小さまざまな27台の山車、古式ゆかしい神社行列、観客に向けてパフォーマンスを繰り広げる虎舞に、一糸乱れぬ歯打ちを披露する神楽。かつて城下町として栄えた中心街に、南部八戸ならではの豊かな表情と熱気が充満します。
4年ぶりに大勢の市民が奏でるお囃子が鳴り響いた2023年の八戸三社大祭を、市民の視点からお伝えします。
八戸の街に「お祭り」が帰ってきた
八戸市中心街には、かつて八戸南部氏が治めた「八戸藩」の城下町として栄えた歴史があります。街には江戸時代の城下町の道のほとんどが残り、その道に沿ってビルやデパートが建ち並びます。八戸三社大祭はこの城下町で行われる、起源がはっきりとした、由緒正しい祭礼。
江戸時代の1721年の発祥から約300年。明治期に法霊山おがみ(龗)神社・長者山新羅神社・神明宮の三社の祭りとなってからからはもうすぐ140年。街を彩る神社行列、山車、郷土芸能は、市民の手によって受け継がれ続け、その規模を大きくしてきました。
しかしコロナ禍は、市民の地道な活動に「待った」をかけました。幼い頃から祭りに参加してきたという25歳の男性は「何か物音がすると、お囃子のように聞こえた」と、祭りが規模を縮小した3年の日々を振り返ります。
コロナの3年は、長いようで短いようで、複雑な日々でした。「こんなことで祭りが終わるわけがない」という確信と「子どもたちは戻ってくるだろうか」という不安が行ったり来たり。
2023年7月31日の午後6時、狼煙とともに幕を開けた前夜祭は、今の八戸に生きるすべての祭り関係者にとって最も特別な瞬間となりました。
前夜祭では中心街・八戸市庁前に山車が4年ぶりに勢揃い。子どもたちが奏でる小太鼓の軽快なリズム、秋まつりの名残を感じさせる笛の音、そして「よーいよーい よいさーよいさー よいさーのせー」というお馴染みの掛け声。子どもたちはいつものように、元気いっぱいの姿を見せてくれました。
3カ月かけ、やっとの思いで「4年ぶりの山車」を完成させた大人たちは、感慨深げに山車を眺めます。色鮮やかな山車の表情も、祭りに浸る市民の表情も、どこかいつもよりも生き生きとして感じられました。
その開幕の瞬間を共有できた安堵と緊張は、祭りのメイン行事、8月1日の「お通り」、2日の「中日」、3日の「お還り」へとつながっていきます。
お通り・お還りでは、3つの神社の御神輿、笹の葉踊り、駒踊り、虎舞、神楽などの郷土芸能と、趣向を凝らした山車が連なります。
浴衣姿で涼しげに舞う笹の葉踊りも、軽快なリズムで人々を襲う虎舞も、一糸乱れぬ豪快な一斉歯打ちを披露する法霊神楽(ほうりょうかぐら)や笹ノ沢神楽も、何もかもが4年ぶり。
久しぶりに作り替えられた27台の山車は、この町の誇りを噛み締めるようにしてゆっくりゆっくりと前に進み、八戸の街を極彩色に彩りました。
期間中、長者山新羅神社では、八戸藩の武芸として始まった歴史を持つ「加賀美流騎馬打毬(だきゅう)」「徒歩打毬」も行われ、境内には歓声が響き渡りました。
これが、いつもの八戸の姿。コロナ禍の影響でいくつかの課題が残ったとはいえ、本当の意味で、市民のもとに「お祭り」が帰ってきたのです。
市民の手によって作り上げられる、八戸の祭り
八戸三社大祭の趣向を凝らした山車は、町内単位の27組の「山車組」が担います。しかし山車は主役ではなく、あくまでも「附祭(つけまつり)」。言い換えれば、脇役です。山車組のメンバーは、3つの神社の氏子としての誇りを持って、山車を制作し、行列のお供をします。
長年祭りに携わってきたベテランの男性は「山車を完成させるまでが大人の祭り。山車が完成してからは、子どもの祭り」と話します。
365日のうち「お祭り」が行われるのはたったの5日間。それでも携わる人々は、残りの360日も、どこかで「お祭り」のことを考えて、準備を進めています。今年がそれが「4年越し」だったわけです。
祭りの見せ物の山車の制作費は、目ん玉が飛び出るくらいの金額。私が今年5月に7年ローンで払い終えた車が3台は買えそうです。(マジで)資金調達も制作も、子どもたちへの指導も、すべて山車組が担います。
少子高齢化にコロナ禍…祭りに携わる大人たちは、あらゆる向かい風を真っ向に受けながら、町の歴史を物語るアイデンティティとも言えるこの祭りをなんとか続けていこうと模索していました。
4年ぶりに制作が始まった5月、山車小屋には制作メンバーが発泡スチロールを削ったり、衣装を縫ったり、予算について話し合ったりする様子が戻りました。7月、子どもたちがお囃子練習に取り組む姿が。それは、少しずつ少しずつ八戸が本来の姿を取り戻して行くようにも感じられました。
祭りとは
青森県の夏祭りはどれも、長い期間をかけて準備が進められます。ほんの数日間のために何カ月も汗を流して準備を進め、やっと迎える祭り当日。青森の夏は、短い。住み慣れた街の見慣れた景色にお囃子が聞こえ始める瞬間、この地域に生きる喜び、地域の風土が与えてくれる恵みへの感謝、そして達成感とも違うちょっと複雑で心地よい何かが、人によっては激しく、人によっては静かに、内側から湧き出てくるものです。
そして祭りに携わる人々の姿を見た観光客は、この地域の底力を目の当たりにし、脳裏に焼き付けた光景を一番の「お土産」として持ち帰ります。
「みんな、この瞬間を待っていた」
多くの祭りは「逆境」を背景に産声を上げ、何百年という時をへた今、地域の「当たり前の姿(=風物詩)」として、受け継がれ続けています。
その「当たり前」に否応なしにストップがかかった時、「当たり前」こそが何よりも特別で、ありがたいものだったと身をもって気付かされたように思います。
誰かは「祭りなんか無くても生きていける」と言いました。また他の誰かは「祭りが来ないと夏が来ない」と言いました。価値観はそれぞれでも、青森県に生きる人たちは、祭りを通して季節の巡りを実感します。そして逆境の中で、祭りはより強くなります。
祭りとは、名前も知らない幾人もの先人たちが、生きる喜びだったり、未来への希望や不安だったりを、世代を超えて幾重にも積み重ねてきたもの。地域の風土を如実に表す、地域が地域たる所以でもあるのかもしれません。
青森県の夏祭りの中でも特異な光を放つ、八戸三社大祭。祭りに関わる仲間たちはすでに「来年の山車の題材、どうする?」などと会話を繰り広げています。祭りが終わった後も「大人の祭り」は続いていくのです。