トップ画像:長岡まつり大花火大会 写真:蛭田眞志
花火と民俗文化
こんにちは。玉川大学芸術学部でジャパン・アーツ(民俗芸能)論を担当している山崎敬子と申します。日本の夏に不可欠な風物アイテム「花火」について、火と火薬も併せてすこしお話させていただきます。
花火に欠かせない「火薬」が日本に伝わるのは16世紀のことですので、それ以前の祭礼には花火はなく、古代から変わらずに存在してきたのは「火」です。では、そもそも「火」をなぜ祭礼で使うのでしょうか。もちろん一つは「灯り」としてですが、灯りが必要な夜だけではなく昼でも火を使いますので、それ以外の目的も当然あります。それは例えば信仰の火として・鎮魂の火として・火薬技術として…などです。
思い付くままにいくつか列挙しましたが、それを見せる場として祭礼が期待されていたことは現在の祭りを見てわかりますので、もうすこし詳しく書かせていただきます。
信仰の火① 日本神話と火
せっかくですからちょっと信仰面からも火についてお話させていただきます。まず日本神話から。木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の火の神話があります。これは初代天皇・神武天皇につながる神話です。天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と結婚し、めでたく懐妊した姫でしたが、夫が「本当に私の子か?」と疑ったため、これに激怒。姫は「あなた(神)の子なら、どんな環境でも生まれるから!」と、出入り口の無い産屋を作り、そこに火を放ち、その中で火照命(ホデリノミコト)・火須勢理命(ホスセリノミコト)・火遠理命(ホオリノミコト)の3柱を出産しました。この火遠理命の孫が初代天皇である神武天皇です。
この神話を感じる祭礼といえば、山梨県の「吉田の火祭り」。初日(8月26日)の「鎮火祭」は、北口本宮冨士浅間神社の祭神・コノハナノサクヤヒメノミコトの神話に由来して火を用いるとも言われております。ここまで激しい火だったかどうかは謎ですが…。
信仰の火② 愛宕信仰
次にこちらを。火の信仰で代表的なもののひとつは愛宕信仰です。京都の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社(古くは阿多古神社)をルーツとする火伏・防火の信仰で全国に900ほど存在すると言われております。古くから修験道の山として知られ、愛宕山に集まった修験者が火伏に霊験ある神として愛宕の神の存在を世間に広めました。愛宕神社の主祭神はイザナミノミコト。その隣にある若宮の祭神は子供のカグツチノミコト。生まれるにあたって、母であるイザナミノミコトを焼き、死に至らしめた火の神です。火にまつわる神をまつることで火伏せ信仰に繋がったともいわれ、民俗学者の大島健彦先生は「火の神迦倶槌命を中心とした鎮火神としての信仰が篤い」と解説しております(『日本の神仏の辞典』大修館書店・2001)。
いずれにせよ愛宕神社といえば「火迺要慎(火の用心)」と書かれた火伏札が有名です。また、戦国時代には勝軍地蔵は武神としての信仰も集めました。伊達政宗も愛宕を信仰しておりましたが、一番有名な武将は直江兼続。彼の兜に掲げられた「愛」の一文字は「LOVE」ではなく「愛宕」の愛であるとの説が有力です。
祈願の火と花火
一番有名なのは、やはり隅田川花火大会かと思います。江戸城を築城した大田道灌が後土御門天皇に対し、古典『伊勢物語』にリスペクトして「「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」とうたった隅田川ですが、寛永5年(1628年)、浅草寺に来た僧・天海を船遊びの際に花火を打ち上げてもてなしたのが隅田川での花火の最初と言われます。
とはいえ花火大会としての期限は享保17年(1732年)の享保の大飢饉の翌年に行われた、その犠牲者を弔い悪病退散を祈願するための水神祭で打ち上げられた花火。この花火が毎年行われるようになり、打ち上げる花火屋の名を取った「玉屋~」「鍵屋~」の呼び掛けと共に江戸の夏の名物になったのです。
祈願の花火の心は現在にも息づき、例えば平成16年(2004年)の新潟中越地震の翌年から始まった長岡市の「フェニックス花火(復興祈願花火)」は、この地震からの復興を祈願して始まりました。名の由来は「何度、被害に遭っても、不死鳥のように蘇る」という想いからです。また、今回の新型コロナウィルス感染症でも同様の花火は始まっております。例えば岡山県岡山市。同市の花火製造業者・森上煙火工業所はコロナウイルス感染症の収束を願って、5月15日夜に神道山から25発の花火を打ち上げています。祈願の花火はこれからも空を彩ることでしょう。
火薬技術と花火
昨日の #灯りの祭典 での個人的BESTショットかなぁ?
最後に3本同時に着火したうちの、最後の1本。
最後の3本だけハネるやつで、なんとかハネた瞬間が撮れました😁
迫力やっばいwNikon D4s+TC-14EⅢ+AF-S NIKKOR 300mm f/2.8G VRⅡ
420mm SS1/200 f/8.0 ISO1600 pic.twitter.com/eFiKv3IhgW— まっきー@TEAMクソ雑魚🇯🇵 (@makky_photo) September 29, 2018
ここでは火薬に関わる花火(和火)や祭礼たちを紹介いたします。
五箇山と硝石
最初に火薬についての事例から。
富山県南砺市の五箇山は、白川郷とともに合掌造り集落が世界遺産に指定されていることもあり世界レベルの認知度を誇りますが、実は火薬の原料である塩硝の産地としても知られていました。これは火薬の原料。古くは「加賀塩硝」と呼ばれ、加賀藩の強みでした。
天文12年(1543年)に種子島に鉄砲が伝来し、戦の戦術に火縄銃が加わります。戦国時代に多いに活用された火縄銃は、黒色火薬を用いましたが、この成分のひとつとして不可欠なのが硝石です。日本ではあまり採れず、戦国時代は貿易港・堺が輸入品として扱っていました。が、本願寺が火薬の製法を上杉謙信に伝え、本願寺の仲介で五箇山に技術者が派遣され、五箇山の火薬・加賀煙硝が誕生しました。戦国時代を裏で支えた、と言えます。
江戸時代に入ると、五箇山の塩硝は幕府にも伏せた軍事機密として加賀藩の扱いとなりました。火薬を祭礼化させず軍事力として保存した例といえます。
龍勢
次は火薬を祭礼化させた事例を。
龍勢(りゅうせい)とは筒に黒色火薬を詰め、竹竿を結んだ花火のことです。上空で傘が開き、様々な仕掛けが作動します。特筆すべきは「最低限のエネルギーで空に飛ばす」こと。要はロケットと同じです。種子島のJAXA宇宙航空センターの「ロケット発射台」を彷彿とさせる景色です。実際にJAXAや東京大学も龍勢祭りで打ち上げたことがあります。埼玉県秩父市下吉田にある椋神社の例大祭で行われる龍勢祭り(りゅうせいまつり・通称「農民ロケット」)が有名で、この祭りで奉納する龍勢は各流派の手作りです。戦国時代の戦場で用いた狼煙が農村の神事・祭礼用から娯楽用等に使用されるようになったもので、平成30年(2018年)に国重要無形民俗文化財に指定されました。実は、打ち上げ式煙火の指定は全国で初めてなんですよ。
綱火とからくり花火
こちらも祭礼化した火薬の事例です。
綱火も戦国時代末期から今に伝わる技術です。茨城県つくばみらい市の8月の愛宕神社祭礼で奉納されます。高岡流と小張松下流があり、高岡流は「あやつり人形仕掛花火」、小張松下流は「三本綱からくり花火」とも呼ばれます。起源を記した文書は存在しておりませんが、慶長年間の愛宕神社祭礼の日に、黒蜘蛛と赤蜘蛛が中で巣作りを見て思いついたとのことです。地上10メートル前後の高さの空中に張った綱を要とし、数個の人形(人形に取り付けた複数の綱で遠隔操作)で空中で人形芝居をします。この人形を置く付属舞台に花火が取り付けられており、その火力で移動します。
また、小張松下流が戦国末期に当時の小張城城主が先勝祝いあるいは火伏祈願のために考案したとも伝わっています。この城主が火縄銃の火薬師でもあったそうで、その秘法を部下に伝えさせ、これが現在の綱火になったとも。
火薬だけに火の信仰と合体し、愛宕神社の祭礼で行われるようになった例です。
手筒花火
一番有名な和火のひとつは、手筒花火ではないでしょうか。
手筒花火(てづつはなび)は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火です。打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと10数メートルにもなります。 愛知県豊橋市の吉田神社が手筒花火の発祥の地と言われており、豊橋市のある愛知県東三河地方や静岡県の遠州地方西部は今も盛んです。
一説には、徳川の砲術隊が三河岡崎にこの技術を持ち帰り、三河・遠州で、花火(手筒花火)が盛んになったともいわれますが、この地域の特徴として花火師が製造を行うのではなく、資格を取った地元の男衆が、最初の竹を切るところから最後の火薬を詰めるところまで、全て自分自身の手によって行い、最終的に神社の祭りで打ち上げ奉納する点が挙げられます。
吹筒花火
また、手筒花火とは異なりますが、吹筒花火というのもあります。例えば徳島県小松島市の「立火吹筒花火」。これは火薬を詰めた約1メートルの竹筒を約7メートルのほたて(花火を焚く台)に取り付け、その竹筒の先から火花が飛ぶ花火。徳島県小松島市の立江八幡神社に奉納され、同神社は阿波花火発祥の地とも言われております。
砲術
最後に、祭礼化させずに火薬武術そのものとして保存された例を紹介します。
砲術とは射撃術のことです。火縄銃もこれに該当しますが、砲術としては江戸時代に成立した大鉄砲(大きな筒を抱え打つ)が一般的かと思います。その後天保年間に西欧式の火薬用兵術(高島流砲術)が伝わり、幕末になるにつれ西洋式が定着すると日本で生まれた砲術は衰退します。ですが祭礼の中で地域の人たちにより伝承されていきました。公の場に復活したのは昭和39年(1964年)。武道として火縄銃演武が認められました。その結果、東京五輪の射撃競技開始式典で米沢市の砲術隊が演武を披露し、平成10年(1998年の)長野オリンピックでは長野県清内路の手づくり花火(上清内路諏訪神社及び下清内路建神社、諏訪神社秋季例祭奉納煙火)が閉会式を飾りました。
このほかにも古式の砲術は地域おこしや祭礼の中で生きております。たとえば、福岡県の陽流砲術。藩外不出の技として黒田藩に伝承されたものです。私は平成29年(2017年)に日本武道館で行われた「第40回日本古武道演武大会」で拝見しました。
おわりに
以上、ざっくりと全国各地の祭礼を彩る火、それが一番華やかに主役となる花火、そしてそれを支える火薬の紹介をさせていただきました。現在では、西洋から導入された花火に対し日本で独自に成長した花火を「和火」とも言いますが、花火は私たちの暮らしに根付く大切な文化です。祭礼の火も、手元の花火も、そして空の花火もぜひ、それぞれ楽しんでください♪