ふるさとの民謡を、都会で普及させようと活動をしている男性がいます。東京都中野区在住の清水久人(しみず・ひさと)さん、76歳。住まいのある中野区でマンションの大家をしながら、その傍らで趣味の「民謡」に30年以上打ち込んでいます。
三味線の師範の資格を持つ清水さんがいま取り組んでいるのが、長野県の諏訪地方に伝わる盆踊り唄「エーヨー節」の普及です。高校卒業とともに、地元である長野県諏訪郡原村を離れ、長らく東京に暮らす清水さんが、地元の民謡に立ち返ったのはなぜなのか。その理由をうかがいました。
製糸業盛んな諏訪の地で歌い継がれてきた素朴な踊り唄
長野県の諏訪郡に属する原村は、八ヶ岳と諏訪湖の間に広がる八ヶ岳高原に位置します。風光明媚な場所として知られ、2015年には原村の「八ヶ岳の裾野に広がる豊かな自然と農地が調和した農村の景観」が同村の地域資源として評価され、NPO法人「日本で最も美しい村連合」にも加盟しています。
また、一年を通じて降水量が少なく湿度も低いため、気候はさわやか。昔から避暑地として都会から多くの人を集め、40年ほど前に巻き起こった「ペンションブーム」の先駆けともなった地だそうです。
「エーヨー節」は、そんな原村をはじめとする長野県の諏訪地方に伝わる踊り歌。原村役場の広報誌『広報はら 2019年12月号』によると、エーヨー節の起こりは江戸時代。「新田開発の希望に満ち溢れた農民の田植え歌」を源流とし、諏訪地方に限らず、伊那谷や山梨県でも盛んに歌われました。
また、諏訪地方の一大産業であった製糸業が隆盛を極めた明治から大正にかけては特に盛んに踊られたようで、お寺の庭に若者たちがうちそろい、宵の口から明け方まで歌い、踊られたと言われています。そのため、歌の文句にも、製糸業にまつわる歌詞がたくさん出てきます。
糸をひくときゃむらなく細く あげて品良くしなやかに
切れてくれるな糸口様よ 切れるたんびに目が光る
キカイ工女の手紙を見れば 豆いり米いり大至急
(長岡和吉 編著『諏訪の盆踊り唄 エーヨー節』より)
本来は、踊り子たちがそれぞれに歌の文句をアカペラで出し合う素朴な踊り歌だったと思われますが、次第に「民謡」として整えられていく過程で鳴り物が加えられていったようで、現在に伝わる「諏訪エーヨー節」などは三味線や太鼓の加わった賑やかな演奏となっています。
原村のエーヨー節はその後も、本来の素朴なスタイルを貫いていったようですが、時代とともに下火になっていってしまいます。そこで原村では伝統継承のため、昭和40年に「原村民謡保存会」を結成。原村に古くから伝わる「エーヨー節」「コチャかまやせの節」の保存・継承を目的に、小学校に教えに行ったり、地域のイベントや施設に出向いて歌と踊りを披露したりといった普及活動を、現在に至るまで行っています。
原村役場 生涯学習課 文化財係の平林とし美さんによると、保存会を結成した当初は、まだエーヨー節やコチャかまやせの節を集落の盆踊り大会で踊ることもあったようですが、いまでは原村で盆踊り大会自体が開催されなくなってしまい、ますます継承の危機に瀕しているといいます。
また近年では、高齢化により保存会のメンバーが減ってしまっていること、コロナ禍により民謡を披露する機会が少なくなっていることが、継承活動の足止めとなり、保存会のメンバーも歯痒い思いをしているそうです。
2022年8月22日には、原村に伝わる2つの民謡を次世代に繋げようと、原村民謡保存会の主催の盆踊りイベント「夏の日皆で踊ろう」が、原村郷土館で開催されました。この際は、多くの人が踊りの輪に加わり、大いに賑わったといいます。
子どもの頃に見た村芝居が三味線に興味を持つきっかけに
保存会とは、また別の形で「原村エーヨー節」を広めようと、東京で活動をしているのが、冒頭で紹介した清水久人さんです。
終戦の翌年、原村で生まれた清水さんは、高校を卒業するまで、東京に働きに出ている母や祖父の代わりに祖母に育てられました。そのおばあちゃんに、幼い頃、連れていかれた村芝居が、民謡に興味を持ったきっかけにもなりました。
「どさ回りっていうんですか、年に4回くらい、村に芝居が来たんですよ。おばあちゃんは子どもを家に置いておけないもんだから、子守りがてらに私を連れていってね。その芝居の中で聞いた歌や、浪曲もやっていたので、そこで聴いた三味線が、(民謡や和楽器に興味を持つようになった)取っ掛かりになっているかもしれないですね」
高校時代にはブラスバンド部に所属し、ますます音楽や楽器に興味を持った清水さん。大学に進学するために18歳で東京に出てきた清水さんは「三味線をやりたい」と母親に懇願して、長唄の先生に師事。26歳で結婚するまで、三味線修行は続いたといいます。
また清水さんは昔からお祭りも好きでした。諏訪といえば、七年に一度開催される御柱祭。自宅の前が御柱の曳行路となる「御柱道」ということもあり、幼い頃は子ども用の御柱を曳き、大人になってからも御柱の年は必ず故郷に帰って、御柱祭に参加したそうです。
そして東京では、神輿祭りに燃えました。
「神輿がやりたくてね。勤めていた渋谷の会社が地区とのお付き合いがあったもんだから、神輿担ぎの人足として呼ばれたんですよ。それで、何年か神輿担ぎはやりましたね。お祭りは大好きです」
子育てがひと段落したところで、また民謡を再開したいと考えた清水さんは、40歳の頃にたまたま通りがかった近所の民謡教室に入会を直談判。「大体そういうところは誰かの紹介で入るもんだから、びっくりしてたね先生」と、清水さんは苦笑します。
民謡教室に通って30年、その間、先生も代替わりしましたが、民謡への情熱は耐えることなく、日々練習に励んでいます。
故郷の民謡をモノにしてみたいと、普及版のエーヨー節を編曲
民謡や祭りが好きな清水さんですが、実は原村にいた頃、「エーヨー節」で踊った経験はないのだそう。踊りといえばもっぱら学校の校庭でフォークダンスを踊った記憶があるのみで、当時は盆踊りには興味がなかったと言います。なので、最近になるまでエーヨー節の存在自体も知りませんでした。
「お袋がね、村の老人会の集まりで、『原村エーヨー節』の歌詞がプリントされた資料をもらってきたんですよ。レクリエーションで、エーヨー節の講習をやったみたいで。それで、こんなものが地元にあるのかと思って、いつかやってみたいなと思ったんだよね」
そこで清水さんは、原村の役場に問い合わせたり、地元の人からテープを借りたりと、エーヨー節に関する情報収集をはじめました。歌詞を集めてみると、素朴な民謡ではありますが、真面目なものや、おちゃらけたものまで、土地の風土や、人々の暮らしぶりを反映した歌詞がたくさん残っていることに驚き、ますます魅了されました。
「踊りもあんまり難しいものじゃなくて、昔はみんなで歌いながら踊っていたかと思われますけどね。誰かが歌いはじめれば、あの節か、という感じでね。即興で歌詞を出して、交代で歌っていたんでしょうね」
せっかく三味線もやっていることだし、一つ故郷の民謡「エーヨー節」を形にしてみたい。そんな思いを強くした清水さんは、民謡教室の先生など周囲の協力も仰いで、エーヨー節の三味線譜の制作に取り掛かります。本来の「原村エーヨー節」は、三味線や太鼓の入らない歌だけの民謡ですが、清水さんは舞台で映えるようにアレンジした、いわば「普及版」。清水さんならではの「エーヨー節」に仕上げ、2022年度の春に開催された民謡発表会で披露したそうです。
「田舎ののんびりした歌なもんだから、民謡歌手が張り上げて歌うのと違ったまた味わいがあって、変わった歌だなと印象に残った人もいるんじゃないですかね。阿波踊りみたいに東京で広まっていったらいいけど(笑)。私としては、いくらか(自分なりのエーヨー節を)形にできたんじゃないかなと思っています」
そして、最後に清水さんは次のように言ってくれました。
「これからも東京にエーヨー節を続けていって、あっち(原村)にまた逆戻しできればいいですね」
清水さんが大切にする想い
実は民謡教室がきっかけで、20年前から東京の阿波踊り連に三味線弾きとして参加しているという清水さん。同時期に参加した民謡教室のメンバーが去った現在も、阿波踊りは続けており、今では連の中でも一番の年長者になっているそうです。清水さんは「(若い人に混じって)私みたいな年寄りもいれば、見ている人も親しみを持ってくれるんじゃないかなと思ってね」と、長年阿波踊りを続けている理由を語ります。
謙虚で、常に穏やかな語り口をくずさない清水さんですが、その奥底には、エーヨー節に限らず、三味線や民謡など、自らが人生をかけて親しんできた伝統文化を、多くの人に広めていきたい、親しみを持ってもらいたいという熱い思いを持っていることを、取材を通じて感じることができました。