「小谷城戦国まつり」は、浅井家が三代にわたり活躍し、三姉妹である茶々・初・江のゆかりの地でもある小谷城跡や城下町などの歴史ある文化遺産を活かした祭りです。今年は「長浜450年戦国フェスティバル」の浅井長政のメインイベントとして、11月11日(土)に盛大に開催されます。
浅井三代の活躍、特に長政はどんな人物だったのか?茶々・初・江はどんな人生を歩んだのか?歴史家の乃至政彦さんに伺いました。
小谷城戦国まつりと浅井長政
滋賀県長浜市では、小谷城を拠点として、戦国浅井三代とその血統から生まれた三姉妹を顕彰する「小谷城戦国まつり」が、長年地元で親しまれている。
今回はその中心的位置にある「浅井長政」の覇気に満ちた生涯を見ていこう。
北近江の大名・浅井長政とは?
戦国時代の近江国に、浅井長政という武将がいた。
この人物に大名といえるほどの権勢があったかどうかは、学術的に再検討されていくかもしれないが、ほとんど独立した勢力だったのは事実で、長浜市も「戦国大名」と呼んでいる。通例に従って、戦国大名と呼んでいきたい。
ただ、完全に独立したと言い切れないところがある。
長政はもとの名を「浅井賢政」という。
浅井家は近江守護の六角義賢に服属しており、義賢の下の一文字「賢」を授かって、名前の上に頂いていたのだ。
だが、浅井家は六角家の影響下にあることを嫌がっていた。
浅井家は、かつて祖父・浅井亮政の時代から六角家と争いを繰り返していたが、天文7年(1538)の抗争で諸城を奪われて劣勢に入ってしまった。このため、亮政の息子・久政が服属を受け入れることになった経緯がある。
この久政が、長政の父である。
浅井久政の挙兵
しかし浅井久政も自主独立の志(こころざし)があった。
天文19年(1550)ごろより、北近江の名族・京極高広を旗頭として反六角派の活動を再開したのである。
久政は、摂津国の三好長慶や本願寺勢力と手を結び、他国の勢力と反六角包囲網を構築しようとしていたが、六角家の当主・義賢は三好家と和睦して、北近江の抵抗勢力への戦力集中が可能となった。
かくして久政は、義賢に敗れ、その支配下に入る運命を受け入れた。両家和睦の証として、息子の長政は六角家重臣の娘を妻として迎え入れ、元服の際には名乗りを「賢政」とすることになったのである。
浅井長政の誕生
永禄2年(1559)、浅井賢政(長政)が正式に元服するが、その時、賢政は妻と離縁した。久政の意向であるかもしれない。独立宣言である。
六角家と浅井家の抗争が再開される。
翌年、久政は賢政に家督を譲り、賢政はいよいよ戦国大名らしくなってくる。
戦国大名・浅井長政
浅井賢政は、父・久政が「御屋形様」として推戴した京極高広を旗頭としなかった。もはや名前ばかりの無力な貴人を推戴するのは、足手まといと判断したのだろう。あるいは今さら高広を巻き込むのも気の毒と思ったのかもしれない。
永禄4年(1561)、賢政は「賢」の一文字を捨てて、「浅井長政」の名乗りを使い始める。
この「長」は、「織田信長」からの偏諱と言われている。
だが、信長は前年に桶狭間合戦で今川義元を討ち取る戦果を揚げたが、まだ尾張一国を保つ程度の実力しかなく、地理的に隣接しない信長から偏諱を貰うなど、ちょっと考えにくいことである。
なお、長政は信長の妹・市と婚姻するが、その時期は史料によって異なっていて、確かなことはわかっていない。常識的に考えると、信長が美濃を制圧した永禄10年(1567)前後と見るべきである。
そうすると、長政への改名に信長は関係なく、ただごく普通に使われる「長」の一文字がたまたま重なっただけと考えるのが適切ではなかろうか。
この時期、実名に「長」の一文字を使う実例は、「池田長正」「大久保長安」「小笠原長時」「篠原長房」「河田長親」「神保長住」「別所長治」「松永長頼」「溝江長逸」「三好長慶」「龍造寺長信」など、多数見出すことができる。つまりは、流行りの一文字に過ぎない。
信長と長政の名前に「長」が重なっているのは単なる偶然の一致で、ここに深読みを進めている可能性を疑うべきだろう。
ともすると、信長が長政に妹を嫁がせた一因に、その偶然に「奇妙なる縁よ」と天道の巡り合わせを感じ取ったためかもしれない。
いずれにせよ長政は、ここに完全なる独立を果たしたと見るのが妥当だろう。だが、その独立心の強さが災いをもたらす。
義兄・信長を裏切った理由
浅井長政は織田信長と同盟関係を結び、互助関係を深めたが、信長が六角家を滅ぼし、足利義昭幕府を打ち立てたあと、魔が刺すような出来事が到来する。
永禄13年(1570)、信長が越前国の朝倉義景を討伐するべく大軍を催して、北陸へ進路を進める。
4月26日、軍勢が越前国の天筒山城と金ヶ崎城を攻め落とすと、信長のもとへ浅井長政が裏切ったとの知らせが入った。
当初、信長はこれを「長政には妹を嫁がせ、江北を任せている。(これだけ信義を通した関係であるのに)何かの誤報だろう」と信じなかった。しかしそれは真報だった。
信長は朝倉軍と浅井軍の挟撃を避けて、急ぎ京都へ撤退した。
この裏切りは、長政が父の代から朝倉義景と同盟関係を深めていて、信長と義景のどちらを取るか板挟みにあって、朝倉家を選んだとの話もあるが、そのような事実は同時代の史料に確かめられていない。長政が裏切りを決意した理由は不明なのである。
長政が信長を襲ったのは、自分が起てば朝倉義景が味方となってくれるのが確実であること、しかも信長打倒が容易で、うまくいけばその殺害も簡単そうであること、こうした事実が直接の原因だったのではなかろうか。
足利義輝が暗殺された「永禄の変」や「本能寺の変」がそうであるように、野心ある武将は自分に有利な状況があれば、理由なく裏切るのである(むしろ理由などない方が、相手も油断していてリスクが少ない)。
だが、長政はここで信長を取り逃がし、反撃の余地を与えてしまう。そこから長政の不幸が始まる。
信長を追い払った長政の武威
浅井長政は以後、朝倉義景と運命を共にする覚悟を固めた。
長政の傍らには市がいたから、彼女を介して信長と和睦する方策も立てられたはずに思う。だが、長政はここから徹底して信長打倒に力を尽くしている。
元亀元年(1570)6月21日には信長の軍勢に本拠地の小谷城を攻められた。ところが長政はこれをあっけなく追い返した。凄まじい抗戦をして、織田諸将を驚かせたのである。
織田軍は撤退が早く、被害を軽微に留められた。
それだけ長政が手強かったのだ。
それから1週間後、信長は徳川家康と合流して、6月28日の近江姉川において会戦を仕掛けてきた。長政は、越前国から派遣されてきた朝倉景健とともに浅井・朝倉連合軍を形成して、倍近くもあったと伝わる織田・徳川連合軍を相手に激戦を演じる。
そこで織田軍を後退させるほどの勢いを見せたが、援軍の朝倉勢が形勢を崩し始めると、織田軍の反攻が勢いづき、浅井・朝倉連合軍はあえなく崩壊した。
宣教師のルイス・フロイスはこの姉川合戦について「信長は、其後近江の国に赴き、二人の領主と戦ひ、此戦に於て六千人を殺されたり」と当時の書簡に記している。
数の力は大きかった。
その後、長政は、将軍・足利義昭や、甲斐国の武田信玄を味方につけて、信長打倒の手を休めなかった。若き長政の覇気が、彼らをして信長との対決姿勢を決断させたのだろう。
小谷落城と遺された三姉妹
天正元年(1572)、長政は信長に小谷城を攻められ、9月1日、城内で自害する。享年29──。
決定打となったのは織田家臣・羽柴秀吉の不意打ちであった。
堅固な小谷城を尾根沿いに直進するのではなく、夜のうちに急斜面の脇側を駆け上り、本来なら道筋にある防御施設の先に守られてすぐには攻められないはずの京極丸を強襲したのだ。すると、正攻法を取っていた別口にいる織田の将兵らも手柄を独占させまいと小谷城中心部に向かって猛進する。
秀吉の巧妙心が小谷城の運命を一変させたのだ。市との娘たちは織田軍に引き取られた。
有名な茶々・初・江の三姉妹である。
その後、茶々は豊臣秀吉に、初は若狭小浜藩の藩祖となる京極高次に、江は徳川家康の息子・秀忠に嫁ぐこととなる。
長政が死したのち、その血統は眩いばかりに輝きを放ち、新たな世を開いていくことになったのである。
小谷戦国まつりでは、長政と三姉妹が生まれ育った小谷城から、大きな英気と覇気を感じ取ることができるだろう。