長岡京跡をはじめ古墳や神社仏閣など、先史から近代に至るまで、文化財や歴史文化が集積している京都府長岡京市。平成4年に文化財のひとつである勝龍寺城跡が整備され、勝竜寺城公園が完成。
その記念に市民から、織田信長のすすめにより細川家に嫁いできた明智光秀の娘・玉のお輿入れの様子を再現する行列の開催が望まれ、実現したのが「長岡京ガラシャ祭」です。
今年で30回目を迎えるこのお祭りは11月12日(日)に開催。主人公である玉こと細川ガラシャとは、夫である細川忠興とはどんな人物だったのか?二人の仲は…など、気になるところを歴史家・乃至政彦氏に伺いました。
細川ガラシャと明智光秀
長岡市では、平成4年に始まり、今年で30回目になる「長岡京ガラシャ祭り」がある。今回はこの祭りの主人公たる女性「ガラシャ」の実像を見ていこう。
細川ガラシャと呼ばれる女性は、永禄6年(1563)の生まれである。
桶狭間合戦から3年後のことだ。
父親はこの頃まだ越前か近江あたりで牢人をしていたであろう「卑しき歩卒」に過ぎない明智光秀であった。
光秀は明日の米に困るぐらい生活苦に喘いでいたが、野心的に活動して、幕臣・細川藤孝の従者(中間)に出世した。
その後、藤孝の計らいで将軍の「足軽衆」に属することとなり、順調に武功を重ねていく。全ては家族を食わせるためであったろう。
細川忠興との出会い
光秀は、織田信長と出会い、そこから運が開けてくる。光秀は信長のため尽力し、褒美として近江の坂本城を与えられた。
光秀は城を大改築して、「天主」を建立した。当時はまだほとんど見られなかった多層式の木造建築であろう。
その後、信長が京都から将軍を追放し、足利幕府を滅ぼしてしまう。
それから5年後の天正6年(1578)、ガラシャは16歳で結婚する。
相手は、父親の元上司・長岡藤孝(もと細川藤孝)の長男・長岡忠興であった。忠興は、ガラシャの死後に「細川忠興」へと改名するが、この時はまだ「長岡」を称していた。
藤孝は将軍が追放された直後、「長岡の旧都にて、城州の名所歌枕の地なるゆへ」と、長岡という言葉が気に入っているからという理由を述べて改名した。だが実際には、幕臣の有名な一族の苗字である「細川」を名乗り続けていると、ほかの織田家臣たちから警戒心を持たれるかもしれないと危惧したためであろう。
ガラシャの容姿については、『明智軍記』が「容色殊ニ麗ク」と伝えている。
容姿の美しさが事実とすれば、芸術的才能を誇り、美意識の高かった忠興は、かねてから見知っていた幼馴染が、伝説として語り継がれるほどの美しい女性が自分の妻となった時、この上ない幸せを噛み締めたことだろう。
ガラシャの名前
その後、信長が明智光秀も幕臣めいた名前であることが気になっていたのか、光秀に「惟任(これとう)」の苗字を与えることにした。光秀はほかの織田家臣たちから好かれていなかったので、「もと幕臣が」などと悪口を言われないよう配慮したのかもしれない。
すると、「細川ガラシャ」の呼び名にいささか疑問が湧いてくる。
彼女の本名は「玉(たま)」であった。
そして夫は「細川」ではなく、玉が嫁いでから亡くなるまで「長岡」の苗字を通していた。
当時は夫婦同姓制ではなく、女性が嫁ぎ先の苗字を名乗る例は見られないので、彼女のことを「明智玉」というべきではないかとする声もある。「惟任玉」という名乗りもありえそうだが、光秀は自分以外の明智一族に「惟任」の名乗りを許していないから、「明智玉」の仮称は適切そうな印象を受ける。
しかし、「惟任玉」であった可能性も視野に入れると、現段階で確定的な答えというのは導き出せない。「正しい答え」そのものがないのであれば、「細川ガラシャ」の通称を使うのが最適解に思われる。
ちなみに長岡家中は、彼女のことを「奥方(おくがた)様」と呼んでいたらしい。ほかに新妻の意味を持つ敬称として「御新造(おしんぞう)様」と呼ばれた可能性もあるだろう。
同い年の夫・忠興がどう呼んでいたかはわからないが、ふたりきりになった時、「お玉」と呼んだであろう。ひょっとすると、「たま様」「たまちゃんっ」と言いながらほっぺたを擦り寄せていたかもしれない。
ふたりは長岡市の勝竜寺城で、翌年に長女・長を、そしてその翌年には長男・忠隆を授かった。
夫の留守中にこっそり改宗したガラシャ
だが、運命は暗転する。
光秀が、謀反を起こして、信長を自害させたのだ。「本能寺の変」である。惟任光秀は長岡藤孝に味方となってくれと頼んだが、藤孝は髷を切り落として、誘いを断った。主君殺しの悪人との関わりを断つことを宣言したのである。
これと同時に息子の忠興もガラシャと離縁して、彼女を辺境の水土野(みどの。丹後市)に幽閉した。忠興は父の居城であった宮津城へ移り、娘と息子も忠興に連れられたようだ。
ガラシャはここで孤独な2年間を過ごしたあと、忠興のもとへ戻った。
とはいえ、忠興はガラシャを自由にしなかった。イエズス会士の宣教師フロイスの記述によれば、遠征する時には「彼が帰るまで決して外出しないように」と自身の屋敷で家老たちに伝えていたという。
こんな彼女に信仰心が芽生えるのは、不自然なことではない。
彼女はフロイスに「勉学の怪物」と評されるほど知識を求めていた。世の真理を知りたいと切望し、24歳の時とうとう屋敷を抜け出し、「侍女の姿」に変装して、密かに教会を訪れ、その場でイエズス会士たちと議論を行ない、彼女の「博識」ぶりと真剣さをその胸に刻み込んだ。
あとから彼女の正体を知ったイエズス会士は驚いたが、貴人の女性であるからか、とても協力的になっていく。一方、ガラシャはより監視の目が厳しくなったため、自身で外出することがまったくできなくなり、代わりに侍女を往復させて、その教えを求め、また洗礼されることを強く望んだ。
だが、彼女と会うことの叶わないイエズス会士は苦肉の策として、すでに洗礼を受けていたガラシャの侍女頭に、洗礼の方法を伝授して、ガラシャに洗礼を受けさせた。
ここに「ガラシャ」の先例名を授かったのである。
ガラシャ(Gracia)という音はスペイン語の発音からくるもので、「神から授けられた恩寵」の意味を持つものと考えられる(フレデリック・クレインス「イエズス会士が作り上げた光秀・ガラシャ像」)。イエズス会士は熱心な彼女の姿に、布教の希望を見たのであろう。
天正15年(1586)のことであった。
忠興とガラシャの仲
帰国した忠興は、妻の改宗にどれほど驚いたことだろう。
だが、やがて忠興も改宗を希望するようになった。しかし太閤・豊臣秀吉がキリシタン追放を進めており、その目を逃れてキリシタン大名になるなど不可能なことで、忠興は苦悩した。
実は、本能寺の変でガラシャを幽閉した時も忠興はガラシャと会っており、そこで次男・興秋を授かっている。
洗礼の前年にも三男・忠利が生まれていて、夫婦仲はよかったようだ。
やがて秀吉が亡くなり、天下は揺れる。
会津の大老・上杉景勝が挙兵を企んでいるとの知らせが入ったのだ。
景勝を討伐するため、大老筆頭の徳川家康が大坂から関東に兵を動かす。もちろん忠興もこれに同行した。ガラシャは大坂の屋敷で留守番をしていた。
そこに毛利輝元や宇喜多秀家らが家康排除のため、大坂を制圧。ここに関ヶ原の争乱が始まったのである。この時代、武家の妻子たる者、万が一のことがあれば、人質の身の上となるよりは、自害するのが望ましいと考えられていた。
だが、キリストの教えによれば自殺行為は大罪である。
このため忠興は、忠臣のひとりに、「万が一のことがあれば、彼女を殺害して自害せよ」と命じていた。
そして慶長5年(1600)7月17日、本当にその万が一の時が来てしまったのである。
ここにガラシャは、自害したとも、家臣に殺害されたとも伝わっている。どちらが真実かは判断に迷うところであるが、一般にそう理解されているように、ガラシャと家臣の合意のもとで、死を迎えたと考えるべきだろう。
ガラシャの死により覚悟を決めた長岡忠興は、関ヶ原合戦において家康のもとで活躍し、その評価を高めることになった。忠興なくして関ヶ原の勝利があったかどうかわからない。
ガラシャの追悼ミサ
ガラシャが亡くなった翌年、忠興はイエズス会士にその追悼ミサを執り行うよう求めた。しかも忠興は異教徒であるにもかかわらず、自分もミサに参加したいと願い出た。
本来なら異教徒がミサに出席することはできないが、彼らには例外を認める権限が与えられていた。
ミサに参加した忠興は、キリスト教を絶賛したが、ついに改宗には至らなかった。
忠興・ガラシャ夫婦の関係は、悲劇的ではあるが、その精神は俗世から隔絶したところで強い結びを得ていたのだろう。
天に召されたふたりは長岡京ガラシャ祭りを、笑顔で楽しんでくれているに違いない。