江戸時代からの現存天守12箇所のうち東日本唯一の弘前城。天正18年(1590)、津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信(後の津軽為信)が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を獲得。後に関ヶ原合戦で東軍につき、徳川家康より加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。
弘前城の築城は慶長9年(1604)為信が京都で客死したため中断しますが、慶長14年(1609) 2代目信枚が築城を再開、慶長16年(1611)、 僅か1年と数か月で弘前城が落成します。当時の天守は寛永4年(1627)に落雷のため焼失、現在は文化8年(1810)に再建されたものです。
現代では桜の名所として名高い弘前城ですが、「弘前城雪燈籠まつり」は、雪深い地域ならでは城の荘厳さと、燈籠の暖かさを堪能できます。そんな弘前城と、弘前藩の礎を築いた津軽為信とはどんな人物だったのか?歴史家の乃至政彦さんに伺いました。
津軽藩創業の苦労
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、弘前藩の初代藩主・津軽為信は東軍に加わったことにより、徳川家康から加増され、晩年は弘前城の築城に意を注いだ。
しかし慶長12年(1607)12月5日、為信は弘前城の完成を見ることなく物故してしまう。享年58。
遺された城に息子の津軽信枚(のぶひら/信牧の名乗りも併用。慶長15年頃より信牧に落ち着く)が入る。しかしこれに異を唱えるものがいた。
実のところ信枚は為信の長男ではなく、三男だった。為信の長男と次男はすでに亡くなっており、長男の遺児(当時8歳)を擁立して次代当主とするのが筋であると思う者が少なくなかった。その思いを代表したのが、信枚の妹婿・津軽建広である。
津軽建広の素性と動向
建広の前歴は面白い。もともと相模国小田原の北条氏政に外科医として仕えていた大河内建信という人物であるという。天正11年(1583)に19歳で陸奥国の津軽為信のもとへ流れた。外科医の知識もあって人体の強弱に詳しかったものか武芸に優れており、為信の気に入られ、その長女を娶り、為信の娘婿となった。ここに大河内建信あらため津軽建広となったものである。実名を改めたのは、義父となる為信の「信」の字を下に置くのを憚ったためだろう。
しかも1万石の知行を得るという破格の厚遇ぶりだった。
その建広は、家康の側近・本多正信に訴状を送り、幕府は裁定に悩んだが、結局は訴状を斥け、三男信枚の相続を認めた。
信枚は自身の跡目相続を覆そうとした者たちを粛清し、家中の意識統一を図った。建広も本来なら徒党形成の罪で自害に処すべきところであったが、新藩主にとっては妹婿であり、先主為信から信頼されていた事績を鑑みて、幕府に許しを得て、追放処分に留めた。
建広は江戸にいた父のもとを訪ねる。
建広の父・大河内為三のもとへ赴くと、武芸を捨てて、再び外科医の道へと進み直した。
やがてその腕を見込まれて、二代将軍・徳川秀忠に拝謁する栄誉に預かり、仕官が叶い、幕府公式の外科医となった。
津軽騒動と呼ばれる事件の渦中にいたにもかかわらず、追放後、過去に未練なく、おのれの道を選び直した決断力の良さが身を助けたのだろう。為信もその思い切りの良さが気に入っていたのではなかろうか。
津軽信枚の事績
さて、二代藩主となった津軽信枚である。
弘前城が完成すると、津軽堀越城から移転し、為信の志を継いで、堀越の家臣団、町人、寺社を移転させた。ここが津軽領の首都となるのである。武家屋敷520戸あまり、町家1100戸あまりの都市が広がり、城域には天守が建てられ、現在の弘前市に繋がるシンボルと祖型を築いた。
天守は寛永4年(1627)に落雷で焼失するが、その後、文化7年(1810)に現在の天守が建造された。かつて天守があった事実があればこそのことであろう。
信枚は様々な動乱に揺れる弘前藩の創業を着実にこなし、寛永8年(1631)に江戸藩邸で亡くなった。享年48。
なお、建広が葬儀に訪れたとは伝わっていないが、どのような心中でいただろうか。建広はその9年後に亡くなる。享年78。
弘前藩の創業期を生き抜いた者たちをあとに、歴史は今も続いていく。「弘前城雪燈籠まつり」で、彼らの面影を思い浮かべられたい。