織田信長も恐れた戦国最強の鉄砲集団、雑賀衆(さいかしゅう)。その頭目で鉄砲の名手、雑賀孫市(さいかまごいち)の活躍を今に伝える孫市まつりが、3月26日、和歌山県の本願寺鷺森別院で開催されます。
「雑賀衆と雑賀孫市をもっと知ってほしい」と始まった祭りは今年で19回目を迎えます。目玉は俳優の原田龍二さんが孫市役で登場する野外劇「原田龍二の雑賀孫市見参!信長の野望を撃て!!」。「武者行列」に、紀州雑賀鉄砲衆ほか全国の鉄砲隊が集合して行う「鉄砲演舞」など、盛り沢山の内容です。
雑賀衆は当時どれだけ強かったのか?雑賀孫市はどんな人物だったのか?歴史ファンならずとも気になる人物像を歴史家の乃至政彦さんに伺いました(全2回)。
雑賀孫一という男
雑賀孫市は、紀伊国の雑賀野(さいかの)で現地の衆を束ねる男である。
孫市は「サイカノ孫一」と呼ばれたこともある(『言継卿記』)。余談ながら雑賀を「サイガ」と濁って発音するのは正しくない。
平井村の「鈴木孫一(孫市)重秀」と同一人物とされることが多く、平井孫一とも称された。
もちろん別人説もある。
同一人物説と別人説のうち、どちらの説を重視するにしても学術的に考えるなら断定はできないが、現段階で同一人物説を積極的に否定する史料は見出されていない。とりあえず一般解釈として同一人物と見なすことは許されるであろう。
重秀は、鈴木佐大夫(左近大夫)の末子と伝わっている。佐大夫は徳川時代の記録に「雑賀城主」と記されている。しかしもともとは別の居城があり、なんらかの事情で後年これを捨てて雑賀城へ移ったものだろう。息子の孫市には、雑賀の十ヶ郷平井村鈴木宅(政所秤)に石高「五、六百石」を領していたという説がある(『紀伊続風土記』、『太田水責記』等)。
徳川時代の大名は1万石につき250人の武士を動員していたというのが通説である。ただ、この計算式によると、5〜600石の孫市が直接動員できる人数はたった15人ぐらいになってしまう。そんな少人数では「雑賀衆」として名をあげることなどできないだろう。佐大夫が7万石を領していたので、孫一の動員人数はこれを合算して考え直す必要があるかもしれないものの、それでも1750人程度である。やはり、少なすぎる。どうなっていたのだろうか。
謎の答えは、戦国時代と徳川時代の違いにある。
徳川時代の動員人数は平和な時代の武士だけで揃える人数で、商人や僧侶から農民まで武装していた戦国時代と環境が異なるのである。
戦国の傭兵集団
孫市は“雑賀五組(五搦[ごからみ])”と称される「雑賀衆」の頭目格だった。
雑賀の五組は、「雑賀」のほかに「十ヶ郷」「社家郷(宮郷)」「中郷」「南郷」で構成されており、しかも武士以外の者たち(武装商人)も積極的に参戦していたらしい。これに関する記録を見ると、その動員人数は想像をはるかに超えている。
例えば、奈良興福寺大乗院の門跡・尋憲が書き残した一次史料『尋憲記』元亀元年の9月4日条に、「根来衆は人数8000人で3日に出立して、紀国衆(雑賀衆)も出立して、両者合わせて1万5000人ほど」が信長の援軍として参陣したということを記している。
また、『信長公記』同年9月19日条も「根来・雑賀・湯川の紀伊国奥郡衆2万ばかりが参戦して、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り、鉄炮3000挺」を武装していたことを記している。
徳川家の記録『当代記』にも同日について「根来・雑賀衆1万以上が(将軍・足利義昭と信長に並んで)参陣し、鉄炮2000挺を携えていた」とある。
根来衆と雑賀衆は同数近い動員人数が可能で、それぞれ8000人近くの戦闘員を用意していた。しかも鉄炮の比率が高く、2割から1.5割が火縄銃を用意できた。
豊臣秀吉の「刀狩り」が本格化するまでの間、一般民衆が武器や防具を私有して、自助自衛する「自力救済」の時代があり、それが戦国時代を戦国時代たらしめていた。
雑賀衆はそういう戦国の申し子であったのだ。
鉄炮は高価な武器であったが、『昔阿波物語』(戦国後期の十河存保に仕えた二鬼島道知斎が書き残した軍記)によると、紀伊の港湾部を拠点とする商売人たちが「さつまあきない」すなわち九州の薩摩との取引で金銭を稼ぎ、それで「みな鉄炮壱挺」ずつ所持することができ、「みなと計に三千挺」ほどを蓄えていたようである。紀伊の人々は水利を活かして大きな稼ぎを得ると、その生活と財産を守るため、鉄炮を買い求めた。
こうしてほかに類を見ない武装集団と化した雑賀衆は、他方面からの要請で、畿内や四国を転戦した。薩摩との商売とは別に、傭兵稼業も盛んだったのである。
しかし傭兵稼業が雑賀衆の大きな収入源になったとは考えにくい。稼ぎを得るためというよりも、無視することのできない人的なつながりや政治的なつながりが彼らを動かしたのだろう。
「あの勢力に味方すれば、きっと我々の権益を守ってくれる」「この援軍要請を断ったら、関所を通してくれなくなるかもしれんな」「ここでこの勢力が弱ったらまずい」という独自の判断基準でおのおの覚悟を決めていたのである。
雑賀孫市は、5000から1万人近くの戦闘員を動員し、しかも大量の鉄炮を使用する力をもって天下に名を轟かせていた。
援軍要請は後を絶たなかったに違いない。
雑賀分裂、そして転戦
しかし彼ら五組の雑賀衆も常に必ず一枚岩だったわけではなく、時として、組ごとに単独行動を取ることがあった。
戦国時代はどこの地方でも領主間の争いがあり、そして上位の仲介者がいたように、紀伊にも「惣国」と呼ばれる裁定者集団がいた。「惣国」は、紀伊国内の代表たちが集まって守護や守護代の代わりに紀伊の諸問題に対応しており、雑賀衆というのもその別称のようである。
その雑賀衆は、時として敵味方に分裂した。天正5年(1577)に織田信長が紀伊攻めを実行すると、雑賀三組(宮郷・中郷・南郷)がこれを先導して、その侵攻に協力した。
彼らは紀伊国そのものを守りたいわけではなく、自分と自領の権益が第一なのであり、自身が支配的地位に立てると踏んだら、隣人にも容赦はしないのである。こういうところもまた戦国の申し子らしい。
この時、孫市は内外の敵を相手に獅子奮迅するも衆寡敵せず。同年3月15日、孫市は織田軍に降伏した。しかしその鉄炮衆はすでに独自に活動を続けており、大坂や播磨など各所で反織田方の味方として戦闘を繰り広げている。
和歌山市の鷺森別院では、こんなフリーダムな男の後ろ姿を懐かしむ「孫市まつり」が開催される。まつりは地元住民に長く愛され、今年で19回目となる。
■参考文献
小橋勇介「鈴木孫一──信長の前に立ちはだかった本願寺方の「大将」」/『戦国武将列伝8畿内編【下】』戎光祥出版、2023
武内善信『雑賀一向一揆と紀伊真宗』法藏館、2018