「放生会(ほうじょうえ)」という言葉を聞いたことがありますか?福岡市の筥崎宮など、場所によってはそのまま祭りの名前にもなっているので、お馴染みの方もいるかもしれません。
そもそも「放生」とは、殺生を戒める仏教の教えにのっとって生き物を野に放すことで、放生を行う法会(ほうえ)や行事が放生会です。現代では放生会が秋の収穫祭などと結びつき、内容も名前も様々に変化したお祭りが、全国各地の八幡神社を中心に9月から10月にかけて行われています。
今回はそんな放生会について、考え方や行事としての起源、現在も行われている代表的な放生会のお祭りなどをご紹介します。
目次
元になった仏教の教えと中国の放生会
仏教には、在家の信者が守るべき「五戒(ごかい)」という5つの戒めがあり、以下の5つの事柄をしてはならないとされています。
殺生(せっしょう):殺すこと
偸盗(ちゅうとう):盗むこと
邪淫(じゃいん):よこしまな性関係を結ぶこと
妄語(もうご):嘘をつくこと
飲酒(おんじゅ):酒を飲むこと
五戒は古代インドの思想に起源を持つといわれ、放生会の元になったのはこのうちの殺生戒、不殺生の教えです。
仏教の経典「金光明経(こんこうみょうきょう)」には、釈迦の前世といわれる流水長者(るすいちょうじゃ)が、流れを止められて瀕死の魚のために20頭の大きな象に水を運ばせて注いだところ、魚たちの命が救われ天界で転生したという放生の話が載っています。
行事としての放生会の始まりは、中国の南北朝時代末に天台宗を開いた智顗(ちぎ)の話が有名です。智顗は漁民が雑魚を捨てているのを見て憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取り、池に放していたといわれます。これが日本にも伝わり、放生会が盛んに行われるようになっていくのです。
日本での放生会の始まり
中国から伝わったと考えられている放生会ですが、日本史上の初出は「日本書紀」で、天武天皇5年(676年)8月17日に「天皇が諸国へ詔を発布して放生を行わせた」といった記述があります。
実際に日本初の放生会を行ったとされているのは、大分県宇佐市の「宇佐神宮」です。宇佐神宮の放生会は、養老4年(720年)に反乱を起こして大和朝廷に鎮圧された隼人(南九州の豪族)たちの怨霊を鎮めるため、八幡神からの「放生をして御霊を慰めよ」という託宣によって天平16年(744年)に始まったと伝えられています。
隼人たちは蜷(にな)という巻き貝に姿を変え、疫病の蔓延や稲の不作を引き起こしていたと考えられたため、宇佐神宮の放生会では蜷や蛤を岸辺や船上から川へと放ちます。
宇佐神宮の仲秋祭(放生会)。
宇佐市和間神社で宇佐神宮の神官と六郷満山の僧侶が祭事を行い、川に蜷貝(ニナ)を放生。
大学生が演習かなんかで参加してたので、しれっとまざって来ました。 pic.twitter.com/kuePmnesyk— 吉蔗 (@kissya_ch) October 9, 2022
かつては旧暦8月15日の中秋(仲秋)にあたる日に行われていましたが、現在は10月の第2月曜を含む土日月の3日間に変わりました。名前も「仲秋祭」となってお神輿の渡御など多くの催しも斎行されますが、中日の日曜日には今も変わらず誅伐した隼人の鎮魂のための放生式が行われています。
宇佐神宮の放生会の始まりから時を経て、時代が平安時代になった貞観5年(863年)、京都府八幡市の男山山頂に鎮座する「石清水八幡宮」でも、宇佐神宮にならって放生会が始まりました。
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こちらでは天暦2年(948年)に天皇の使者「勅使(ちょくし)」が派遣されるようになったことが最大の特徴で、それ以降は鳥や魚を山川に放つ放生の儀式のみならず、朝廷での節会に準じて楽人舞人による舞楽の奉納や神輿の渡御が加わり、段々と荘厳さが増していきます。その結果、日本の放生会の中心となっていきました。
しかし諸国が戦乱の時代に突入したことによって200年以上も途絶し、江戸時代に再興されるも明治時代の大改革に際して名称や内容が何度も変更。「石清水祭」として旧儀にのっとり斎行されるようになったのは昭和24年(1949年)からのことです。
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かつては旧暦8月15日が開催日でしたが、新暦に変わった現在では、毎年9月15日に行われています。15日深夜2時頃、八幡大神の神霊をのせた御鳳輦(ごほうれん)が、松明や提灯だけが灯るなか山麓の頓宮へ向かうところから始まり、魚や鳥を放つ放生行事は朝8時頃に行われます。
その後、舞楽や演武の奉納、数々の儀式を経て、御鳳輦が山上の本殿へお戻りになるのは夜の8時頃。石清水八幡宮で斎行される祭典のなかでも、重儀として知られているお祭りです。
どうして仏教行事が神社のお祭りに?八幡神社で行われているのはなぜ?
仏教の不殺生の考えを元にした放生会が、どうして日本では神道の神様を祀る神社でも行われて、現在もお祭りとして続いているのか?疑問を持った方もいらっしゃるかもしれませんね。
日本では仏教の伝来以降、明治時代に政府が神道と仏教を明確に区別する「神仏分離令」を出すまでは、神様と仏様を融合・調和させてともに信仰する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)が」ごく一般的に長らく行われていました。具体的には神社の境内に仏堂が、寺院の境内に拝殿が建てられて一体化したりしていましたが、創建当時の宇佐神宮でもその形が見られました。
2月堂の後は、東大寺の大仏を見に行って来ました🎵 pic.twitter.com/UUdlELO18B
— なおすけ (@naosukeK0723) September 14, 2023
神亀2年(725年)の創建時からほどなくして、宇佐神宮の境内には弥勒寺が建立され、初代別当(長官)には虚空蔵寺の法蓮がなったと伝わっています。
また、難航していた奈良の東大寺の大仏建立に対して、八幡神の神威をもって協力し必ず成功するだろうという託宣を送るなど、仏教との結びつきがとても強く、朝廷や天皇からの篤い信頼も寄せられていました。そのなかで仏教行事だった放生会が行われたことも、自然な流れだったと想像できます。
国東半島に隣接する宇佐地方には、全国八幡神社の総本宮である宇佐神宮(国宝)がありますが、国東の仏教文化と宇佐八幡神が、神仏習合と言う形で今に受け継がれています。
異宗教であってもお互いを認め合うという古代人のおおらかさ。 pic.twitter.com/3J1mJbkLK2— 茉莉花 (@n_maturika) February 14, 2021
また、宇佐神宮は現在では全国約11万の神社のうち4万余りを占める八幡社の総本宮です。京都の石清水八幡宮も、宇佐神宮から八幡神の分霊を移して祀る「勧請(かんじょう)」によって創建されました。勧請によって増えた神社では同じ祭礼が引き継がれることも多く、旧暦8月15日の放生会も広がっていきます。
八幡神として祀られる応神天皇は、国内外に大和朝廷の勢力を飛躍的に拡大した人物とされ、母である神功皇后も応神天皇を身ごもりながら朝鮮半島に出兵し、見事に新羅、百済、高句麗を帰服させたとされる人物。ともに武運や勝ち運、出世運に霊験あらたかな武神として、徐々に台頭してきた武士たちからの信仰を集めます。
そして源頼朝が鎌倉に、源氏の氏神となっていた石清水八幡宮から勧請して「鶴岡八幡宮」を整備すると、中世武士たちは「神は八幡」といって篤く崇敬。全国各地の武家が分社・末社を建てて勧請することで、八幡信仰と放生会は一気に拡大し、一般庶民の中にも浸透していきました。
鶴岡八幡宮で放生会が初めて行われたのは、文治3年(1187年)の旧暦8月15日。流鏑馬が奉納され、源頼朝が自ら由比ガ浜に出向いて千羽鶴を空に放ったといわれます。一説には滅亡した平家の御霊を鎮める目的もあったのだとか。この放生会が現在の例大祭の起源となりました。
鶴岡八幡宮の例大祭は、今は毎年9月14日~16日までの3日間かけて盛大に執り行われています。神輿3基を含む数百メートルに及ぶ行列が若宮大路を進み、御旅所では八乙女舞の披露もあります。
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一方で、最終日には開始当初の放生会さながらに、流鏑馬の奉納と鈴虫を自然の中に放つ「鈴虫放虫祭」も行われます。800年以上の時を経ても、往時を偲ぶことができるお祭りです。
江戸時代には庶民の行事に。アコギな商売もはびこった!?
石清水八幡宮の放生会の例にもれず、戦乱の時代にはどこの放生会も中断を余儀なくされました。やっと再開したのは江戸時代の天下太平な世が訪れてからです。
特に徳川綱吉による「生類憐れみの令」は不殺生の教えと合致し、肉食を一食ひかえれば一回の善行となり、放生をすれば功徳が積めると信じられるようになりました。
そのことを庶民に説く本がいくつも出版され、放生会は庶民も参加する民間行事として盛んになっていきます。旧暦8月15日に神社や寺の境内に行くと、逃がすための生き物「放し亀」「放し鰻(うなぎ)」「放し鳥」を売る露店が立ち並び大いに賑わったのだとか。
鰻といってもドジョウくらいの小さなもので、鳥はスズメが多かったそうですが、商売人の中には、客が買った生き物を放つとそれをまた捕まえて売るという商魂たくましい人もいたようです。いかにも江戸っ子らしいエピソードですね。
他にも有名な放生会はある?
ここまでに宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮では今でも貝や魚、鳥や虫を川や野に放つ放生会が古式ゆかしく行われていることをお伝えしました。他にも全国の八幡神社や寺院の中には放生会を行っているところがありますので、いくつかご紹介します。
◎筥崎宮の放生会(福岡県福岡市)
福岡市東区箱崎に鎮座する筥崎宮(はこざきぐう)は、応神天皇を主祭神として神功皇后、玉依姫命を祀り、「筥崎八幡宮」の異名を持つ神社。放生会と書いて「ほうじょうや」と読む祭りは、毎年9月12日~18日の7夜にもわたって行われるとても大規模なもので「九州三大祭り」の一つにも数えられるほどです。
現在のお祭りの目玉は参道にひしめくグルメを中心とした約500店もの露店で、これらを目当てに約100万人もが訪れます。しかし、祭りの起源は紛れもなく放生会。延喜19年(919年)に行われたという記録が残っており、「合戦の間、放生会を修すべし」という神託を元に始められたと伝わっています。
【童児育成祈願祭・放生神事】
筥崎宮 放生会の納めとなる神事「童児育成祈願祭並びに放生神事(稚魚の放生)」を執り行い、日本の将来を担う子ども達の健やかな成長を祈念致しました。#筥崎宮 #放生会 #神社 #福岡 #パワースポット pic.twitter.com/aB1UdHQOnx
— 筥崎宮@公式 (@hakozakigu_offi) September 18, 2020
御神幸(御神輿行列)や稚児行列などと並び、最終日には鳩や魚を自然に帰す「放生神事」が今も執り行われているほか、生きていく上でやむを得ず犠牲にしてしまった生き物や、大切にしてきたペットの霊(みたま)祭りも行われています。
◎興福寺の放生会(奈良県奈良市)
奈良市の興福寺では、毎年4月17日に「放生会」が行われています。
興福寺で放生会
殺生戒め魚を放つ🐟🐟https://t.co/qdO3wQGSIC#奈良市 #興福寺 #仏教行事 #nara_np #奈良新聞 pic.twitter.com/tcTSc0FuIG— 奈良新聞(Nara Shimbun) (@nara_np) April 18, 2023
猿沢池から事前に採取したモツゴなどの在来種を、負担を最小限にして放生していることが特徴です。最新の研究を参考にし、スロープなども用いながら執り行われています。生き物を大切にすることを考える良い機会としても重要な催しです。
◎放生寺の放生会(東京都新宿区)
東京の都会の真ん中でも、放生会が残っている場所があります。新宿区早稲田で穴八幡宮と隣接する「放生寺」では、毎年10月第二月曜日(スポーツの日)に放生会を行っています。
(続き)
いよいよ本堂前の池で放生会です
参列者全員が金魚の入った容器を受け取り、竹の樋を通じて池に放しましたこうして昔から伝わってきた生命の大切さを学ぶ機会は大切にしたいものですね
放生寺の隣の「一陽来復」札の穴八幡宮にももちろん参拝、流鏑馬神事も少し見学し帰宅しました pic.twitter.com/hpKgdfBwU1
— 風来かげほうし® (@tohokueaglesed1) October 10, 2017
こちらで放生されるのは魚です。命の糧となる生き物に感謝し、供養を行ってそれらの霊を慰め、感謝の気持ちを持って境内の放生池に放ちます。
上記の他にも、宇佐神宮と同じ大分県内では日田市の「大原八幡宮」や大分市の「柞原八幡宮」などで、宇佐神宮と同じ「仲秋祭」という名の元でお祭りを行い、その中で魚や鳥を放つ放生会が斎行されています。
場所は九州にとどまらず、大阪府豊野町の「吉川八幡宮」では9月中旬に放生会を行い、富山県射水市の「放生津八幡宮」では、毎年10月2日の例大祭の中で放生会を行い、放生の舞を奉納し、鳥が大空に放たれます。岐阜県高山市の「櫻山八幡宮」では、明治時代まで盛んで中断されてしまった放生会を復興。平成14年(2002年)から毎年8月16日に執り行っています。
まとめ
今回は、神仏習合そのものともいえるような行事「放生会」について、そもそもどんな行事か?由来や歴史、全国各地で行われている場所などについてご紹介しました。
現在は放生会を行っていなくても、祭りの起源に放生会が関係していたり、祭りの名前に名残を残すものもあります。その代表が福井県小浜市の八幡神社の祭礼である「若狭おばま放生祭(ほうぜまつり)」といえるでしょう。
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毎年9月の敬老の日直前の土・日曜日に行われる小浜八幡(男山八幡)の祭礼で、山車や神輿、神楽や太鼓といった芸能が披露される賑やかな秋祭りです。
毎年9月から10月にかけては、全国のお寺で「放生会」という名で開かれる行事はもちろん、特に八幡宮や八幡神社の例大祭では名前だけでは分からなくても実は放生会を行っている場合もありますので、あなたの近所でもぜひチェックして、実際に放生会を見に行ってみてくださいね。