新宿歌舞伎町の奥にある、稲荷鬼王神社。ビルの間に突如として現れる、緑のあふれる境内は、まるでキツネにつままれたかのようです。名前に鬼の王が付く点で不思議な神社ですが、境内にはもう2社神社があったり、ユニークな言い伝えや取り組みがあったりと、たくさんの興味深い点が存在しています。
今回お話をいただいたのは、代々、稲荷鬼王神社の宮司を務める大久保家の16代目・大久保宮司。
まずは大久保宮司に、この神社の成り立ちについて伺いました。(※以下、文中の「」内は全て大久保宮司のコメント)
350年以上の歴史を誇る稲荷鬼王神社
全国で唯一“鬼王”の名前が付く神社である、稲荷鬼王神社。また名前からもわかるように、鬼王権現を祀るだけでなく、“稲荷様”を祀る稲荷神社でもあります。いったいどのような成り立ちがあったのでしょうか?
「もともとこの辺りは、西大久保村という地域で、理由は定かではありませんがこの土地は聖なる地とされていました。この聖地に稲荷神社が建てられたのが、承応2年・1653年、今から350年前以上も前のことです。」
やがて稲荷神社の土地には、別の神様が共に祀られることとなりました。神様の名は鬼王権現。西大久保村のある百姓が地元を代表して、紀州・熊野にお参りに行った際のエピソードが由来となっています。彼は道中で体調を崩してしまい、当時熊野にあった鬼王権現を祀る神社を参拝したところ、病気が平癒。感謝の印として、西大久保村に鬼王権現を勧請したのです。
また区役所通り方面の入口近くには、“三島神社”(別名・開運恵比寿神社)が鎮座しています。もともと恵比寿様が祀られていたお寺が江戸時代に火災にあってしまったため、稲荷鬼王神社の境内に祀られるようになりました。新宿山之手七福神の一つにも数えられています。
敷地内には、もう一社、“浅間神社”が存在。浅間神社はもともと明治期以前までは境内に祀られていた別の神社でしたが、明治27年に、稲荷鬼王神社に合祀。その後、庭師や植木氏の方たちが好んで道中安全のお参りをした西大久保の厄除け富士として、境内で再建されました。その造りは、庭師・植木師の方たちの協力もあり、富士の岩だけでなく全国から岩がとりよせられ、現在の社務所よりも高い富士山が建立されていた、といわれています。
しかし第二次世界大戦の影響で地盤が緩み、富士山は移動・縮小を繰り返し、現在の一合目~四合目、五合目~頂上が参道を挟んで設置される形式に落ち着いたのです。富士が二つに分かれたことで、間を通る参道そのものが、富士の胎内に通ずる道となっており、通過することで富士山にこもってお参りするのと同じご利益を得られます。
稲荷鬼王神社独自の風習として行われているのが、“撫で守り”と“豆腐断ち”。体調の悪い時期に、昔の人々にとって身近だった三白(米・大根・豆腐)のうち栄養のある豆腐をあえて断ち、神に身をゆだねます。並行して、神社でいただける御守り“撫で守り”を用い患部を撫で、病気の平癒を祈るのです。江戸~明治期、ご利益は新宿から人伝でに広まり、遠方からわざわざ来る人もいたそうです。
区役所通りに面した境内には、しかめっ面で大きな鉢を支える鬼型の水鉢“力様(りきさま)”が存在。
言い伝えでは、当時、設置されていた家で不審な水音を発していたため、後ろから切りつけられたとされており、刀傷は現在でもはっきりと確認できます。切りつけられたのちに、切りつけた主の一家を恨み、呪いの危害を加えたことから、稲荷鬼王神社へ奉納されました。
神社に奉納された水鉢は、夜になると『痛い、熱い』とうめき声を上げたため、神社の氏子さんや宮司が水をかけ、介抱してやることに。すると、近隣の子どもたちの体調や悩みが良くなる、不思議な効果があらわれはじめたのです。
現在では、水をかけると子どもの成長にご利益のある、という水鉢となっており、大久保宮司が代表して毎日、井戸水で水を流しかけています。
ちなみに最初に水鉢を切りつけた刀は、のちに“鬼切丸”と呼ばれるようになったそう。
なぜ神として受け入れられのか? 地域に愛されてきた鬼王権現の謎
稲荷鬼王神社の鬼王とは“鬼王権現”を指し、月夜見命・大物主命・天手力男命の三神を祀っています。
しかし同社が建立されたのは、今より神様についてのしきたりが厳しい江戸時代。大久保宮司は、一族に伝わる言い伝えや当時の背景も踏まえたうえで「江戸時代に鬼の名が受け入れられた、というのはとても不思議なことなんです。」と話してくれました。
「“鬼王”が月夜見命・大物主命・天手力男命の三神を表すと定めたのは、じつは明治時代以降、得られるご利益から神様を逆にたどって、当社が定めたものなんです。なので建立当時の“鬼”の印象は、現在と同じように、邪の象徴だったはずなんですよね。その鬼がなぜ、この地で稲荷様と一緒に祀られるようになったのか? 私たち一族には伝わっておらず、本当に不思議な事実なんです。ただ稲荷鬼王神社は地域の人に大切にされてきましたから、何かしらの理由があったことは確かだと思います。」
大久保宮司にもわからない、鬼王が西大久保(現在の歌舞伎町)の地に受け入れられた理由。実は神社様の公式ではないものの、ある俗説が存在しています。
明治に出版されたある書で突如浮上した、西大久保の地が平将門公と関連があったのではないか?という説。明治といえば、江戸時代に生まれた方々もまだ存命されている時期、全く根拠のない情報を出すわけにもいかないため、有力視されています。
(稲荷鬼王神社さんの公式見解ではありません。)
建立されたのち、鬼王は“人々の災いを払ってくれる存在”として認知されていきました。
「すべては稲荷鬼王神社の神様のため」 16代続く、一族の誇り
江戸時代の建立以降、多くの人が稲荷鬼王神社を訪れ、病気の平癒や悩みの解決のためにと祈りを捧げてきました。特に江戸時代は豆腐断ちに訪れる人に向けた豆腐の販売だけで、数件の豆腐屋の生計が成り立つほどだった、といいます。現在も数多くの人が足を運び、1日に訪れる人の数はおよそ1000人ほどだそう。
稲荷鬼王神社では、夏越の茅の輪や恵比寿様のべったら祭り、大祭など一年を通して、さまざまな行事が行われています。取材時は4月のため色鮮やかな桜草が見られる、鎮花祭(はなしずめのまつり)の真っ最中でした。毎年行われている鎮花祭ですが、今年からは夜に桜草を照らす“竹灯り”を始めたそう。
理由を聞くと大久保宮司は、代々、稲荷鬼王神社を管理してきた大久保一族についてのお話を聞かせてくれました。
「今回の鎮花祭の竹灯りは、夜にお参りに来られる方が笑顔になってほしいという想いがありますが、一番は神様のために始めた工夫なんです。」
「竹灯の工夫に限らず稲荷鬼王神社では、代々、神様に一番に喜んでいただくことを考えて運営をしています。来る人が笑顔になってくれたり、幸せな気持ちになってくれれば、神社の存在が広まり神様も喜ばれるんです。」
稲荷鬼王神社では御朱印を渡す際、できるだけ、大久保宮司が神社についての説明をしてから、御朱印を授けるようにしています。御朱印についての説明もまた、稲荷鬼王神社の神様たちのため。
明治時代、鬼の力にすがるべく遠方からお礼参り来る人は距離的な問題からどうしても、お参りしたくても数年に一度になってしまう、といったケースが多くありました。
『彼らがお参りへの悔しい想いをするのは、神様が喜ぶことではない』と考えた当時の宮司は、『糸を結ぶがごとく、神様と縁を繋いでいてくほしい』と、御朱印をつくり、神社・御朱印についての解説を添えるようになり、現在16代目の大久保宮司まで脈々と受け継がれているのです。
「“地域のため、みんなのため”と言えればかっこいいのですが、神様に一番に喜んでいただくための行動というのは、私たち大久保一族にとって、大切な誇りなんです。」
おわりに
新宿の東、ビルの間にある神社は、神様のための行動が結果として地域の方々のためになる、不思議な思いやりが輪つくる温かい場所でした。
コロナウイルスの影響が強まってからは、毎日“九字きり”と呼ばれる儀式を行い、平穏な日々の訪れを願っています。「これも神様のため」という大久保宮司。言葉の裏には、優しさと思いやりにあふれた、大久保宮司の素顔があるように感じました。
JR新宿駅の東口を出たら、歌舞伎町を超え、徒歩10分ほどの場所にある稲荷鬼王神社。鬼の王へ願いをかけに、一度、訪れてみてはいかがでしょうか?