平安時代、日本最大といわれた島津荘の中心地だった宮崎県の都城。毎年11月には島津の歴史を体感できる島津発祥まつりが開催されます。当日は、「島津荘園」で開催されるステージや、都城島津邸から神柱公園まで、島津家歴代当主や都城島津家私領一番隊の武士に扮して練り歩く「明道館パレード」など、さまざまなイベントが楽しめます。
都城島津氏の始まりとはどんなものだったのか?実は昨年の大河ドラマで大活躍したある武将も関わっています。島津忠久と十文字の家紋、今も続く島津氏の逞しさについて、歴史家の乃至政彦さんにお伺いしました。
島津発祥まつりと太祖・島津忠久
今年の11月23日(木)に「2023島津発祥まつり」が開催される。
島津といえば、熊本県の薩摩島津家を思い浮かべる人も多いだろうが、その発祥地は、今回の祭りが行われる宮崎県なのである。
島津義弘らを含む熊本城おもてなし武将たちも島津一族の発祥地に敬意を表するように、祭りに参加する予定となっている。
では、その太祖たる人物がどのようにして島津を名乗ったのか、もともとどのような人物だったのか気になるところである。
今回は、太祖・島津忠久について、簡単に説明したい。
都城島津氏
元暦2年(1185)8月、「鎌倉殿」である源頼朝(よりとも)(1147〜99)が、鎌倉幕府の御家人・惟宗忠久(これむねただひさ)(1165?〜1227)を「島津荘(島津御荘)」の下司職(げししき)に任じた。
忠久は現在の宮崎県都城市と重なる日向国諸県郡(もろかたごおり)に下向すると、居所をそことしたという。
これこそ「中世島津氏」が発祥した瞬間であった。
忠久は、大宰府の惟宗忠康と比企能員(ひきよしかず)妹の間に生まれた男子である。
それが京都の朝廷で藤原氏の近衛家に仕え、「左兵衛尉」の官職にある宮廷武人として、名を馳せていた。
比企能員の母親は、頼朝の乳母であり、比企氏の身内であった。このため「鎌倉殿」となった頼朝が、信頼できる人物を重用したいと考え、身内に近い男である忠久に、平家の旧領「島津御領」を託すことにしたのである。島津荘はもともと近衛家が本家であるので、この流れは自然なことでもあった。
地頭に抜擢された忠久に対して、平氏政権の記憶が残る現地の人々からは不信感があったかもしれない。だが、それでも忠久は10年以上もの間、島津荘の顔として過ごしている。近衛家の番頭格として仕えていた経歴が効いたのだろう。
もちろん当人の性格に問題があれば、そのような過去が権威として作用するはずもない。反抗的な武士も少なくなかったと思われるが、忠久の努力と人柄が認められたのだ。
やがて忠久はある決意をする。
建久9年(1198)頃、忠久は「島津」の名字を使うことにしたのだ。
それまで「島津殿」と呼ばれて久しく、そう名乗る方が便利で、なおかつ自分に似つかわしい名字だと思うようになっていたのだろう。
ここに幕末まで続く「島津」の名字が生まれたのである。
島津忠久と十文字の家紋
島津忠久は家紋のデザインにも力を入れた。
現在その家紋は「丸に十」として伝わるが、もともとは単なる「十」だけであったらしい。3〜5世紀の中国の歴史書は、『晋書』において蒸し餅に「十」の文字を焼き入れて食べていたのが風習として広まっていると伝えている。
鎌倉殿は、これを模倣して、「十」の文字を焼き入れた餅を御家人たちに配って喜ばせることがあった。
島津忠久は、こうした鎌倉殿の御恩への思いを紋様として愛用したらしく、現存する島津忠久の甲冑「赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)」(尚古集成館蔵)にも「十文字紋」が記されている。
忠久失脚
ところが建仁3年(1203)9月2日、忠久にとって不幸な事件が起きてしまう。「比企能員の変」が発生したのだ。
この事件で、謀反を企んでいたという能員が御家人たちの手によって鎌倉の名越(なごえ)で誅殺されてしまったのである。
時の執権格にあった北条時政(ほうじょうときまさ)(1138〜1215)は、当然のこととして能員の妹婿・島津忠久からその職と領土を全て剥奪する。それまで大隈・日向・薩摩三カ国の守護であった忠久は、無職となってしまった。
とはいえ、殺害するまでには至らなかった。忠久は比企能員の企みに関与した形跡がなく、それでも失脚の憂き目に遭っていることから、事件当時は九州に在地していて、どちらからも蚊帳の外に置かれていたように思われる。
その後、若き将軍・源実朝(1192〜1219)の世において、越前守護に任じられるなど、忠久は鎌倉幕府の中で復権していく。
元久2年(1205)九州の薩摩守護に任じられ、再び九州地方に腰を落ち着けることになる。
惟宗忠久は、当初の氏(うじ。苗字とは異なる)が不確かで、通説に従えば秦氏だったと思われるが、「承久の乱」があった承久3年(1221)7月12日に「藤原氏」を称しており、ここから島津氏は藤原氏の一族として定着していく。
氏素性の変化が激しかった島津一族
その後、15世紀の戦国時代になると島津一族は「源氏」を称し始める。だが、はじめ「惟宗」の名字を名乗っていた太祖・忠久は、おそらく「秦氏」であっただろう。それが「藤原氏」になった。そこから「源氏」に変化した理由はよくわかっていない。
この時期、『酒匂安国寺申状』という島津家臣の書いた史料にも、「島津忠久は源頼朝の御落胤で、比企能員の妹との間に生まれた長男である」とするものが作られている。こうした物語を根拠にもとの素性を「源氏」に変えたようだが、天下の足利将軍が源氏であったから、自分たちも源氏を名乗ろうと考えたのかもしれない。
その後、島津一族は自分たちが古くから栄える名族とする認識が高まっていき、このように氏をコロコロと変えたことを忘れたようなところがある。
薩摩島津家臣の上井覚兼(うわいかくけん)は、その日記『上井覚兼日記』天正14年(1586)正月23日条に、成り上がりの天下人・羽柴秀吉のことを「羽柴氏は本当に由来もない人で、[中略]源頼朝以来ずっと変わることなく続く名家の島津家がこのような男を『関白』として見上げることになろうとは、[中略]天子様は確かな素性もない者に関白を任じられた」と嘆きの声を漏らしている。
自分たちのことは棚上げしているのが、ある意味では貴人らしいといえる。やがてその島津家も秀吉から「豊臣氏」の氏を与えられることになり、またしても氏が改まるわけである。
もっとも戦国末期は複数の「氏」を同時に名乗るような変則的な感じになっていて、豊臣氏であるとともに源氏でもあったのだろう。豊臣政権が滅びると、島津一族はその氏を「源氏」に復することになる。
このように「秦氏」→「藤原氏」→「源氏」→「豊臣氏」→「源氏」へとその氏を幾度も改めた。
このような激しい氏の変動をみるだけでも戦国時代の栄枯盛衰の激しさが伝わる。島津家は初代・忠久より名だたる当主を何人も輩出し、今日までその名脈を保ち続けてきたのであった。
島津発祥まつりでは、島津家の歴史を体感できるだろう。
[参考文献]
高澤等『家紋大辞典』東京堂出版、2021
日本史史料研究会監修・新名一仁編『中世島津氏研究の最前線』洋泉社歴史新書y、2018
新名一仁編著『図説中世島津氏』戎光祥出版、2023