2023年9月10日(日)、毎年秋に行われていた東京・奥多摩町の小河内(おごうち)神社例大祭が、4年ぶりに開催されました。このお祭りで奉納されたのは、「小河内の鹿島踊」。ユネスコ無形文化遺産にも登録された「風流踊(ふりゅうおどり)」41件のうちのひとつです。
今回は、小河内の鹿島踊が辿った数奇な運命について触れながら、お祭り当日の様子をお届けします。
湖底に沈む神々の故郷
都心からは車でおよそ2時間、あるいは電車で2時間とバスで30分ほど。奥多摩湖の淵をなぞる道を進みながら、青々と茂る晩夏の山並みに気を取られていると、湖の中央へとそれていく道が現れます。湖に突き出ている岬のような地形をなしたこの場所にあるのが小河内神社です。
年に一度(今年は4年ぶり)開催される「小河内神社例大祭」で奉納されるのは、この地域で伝えられている「鹿島踊」。鹿島踊りというと茨城の鹿島神宮に端を発し、千葉と神奈川西部から東伊豆にかけて多く伝承されている、疫病退散祈願の集団民俗舞踊を指すのが一般的です。
小河内の場合は、演目のひとつ「三番叟(さんばそう)」の歌詞の「鹿島踊をいざ踊る」が呼び名の由来といわれ、男性が女装して踊るという独自性があり、踊りの所作や唄に古い歌舞伎踊の遺風がみられます。その点が高く評価され、1980年(昭和55年)には、国の重要無形民俗文化財にも指定されました。
そして、小河内の鹿島踊はこの地域で起こった不遇な出来事とも深く関わっています。小河内神社に祀られているのは、9つの神社と11の神様。そしてそのすべてはかつて、奥多摩湖の底に沈んでいる地域にあったのです。
それでもなお、舞いを残そうとした人々がいた
現在では都内で最大の貯水量を誇る奥多摩湖に、小河内ダムの建設が着工したのは1938年(昭和13年)のこと。太平洋戦争の激化による中断を経て1957年(昭和32年)にダムは完成しましたが、この大規模な建設事業により、旧小河内村の14の集落の945世帯は立ち退きを余儀なくされました。
ダムの建設からしばらくの間、この地域で伝承されていた芸能は踊られる機会がなくなり、途絶えてしまう危機に陥ってしまいます。1970年(昭和45年)になり、住居を移した人々によって、鹿島踊保存会が発足。水没した地域の神社と神様を祀る小河内神社で、再び踊りを繋いでいくことになったのです。
日常に隠れた美を芸へと昇華する鹿島踊
小河内神社例大祭で披露する鹿島踊は、旧小河内村の日指(ひさし)、岫沢(くきざわ)、そして南の3つの集落の加茂神社と御霊社の祭礼で踊られていた郷土芸能。笛と太鼓の音色に合わせ、6人の踊子たちが舞台となる境内の中央に整列しながら入場します。
男子が務める踊り子は、江戸紫の振袖を纏い、白塗りを施した女装姿。頭には華やかな瓔珞(ようらく)を飾り付けた金色の冠を頂き、高貴な雰囲気を漂わせています。
音に合わせゆらゆらと身体を上下に揺らす踊り子。1曲目は「毬踊(まりおどり)」を披露しました。「ソーレ」のかけ声で毬を蹴るような所作で表現するのは、蹴鞠に興じる平安貴族。波打つ水面のように扱う扇は、貴族たちののどかな日常を思わせます。
二曲目の「浜ヶ崎」では、女性たちが塩づくりのために浜辺で海水を汲む様子が表現されています。扇をくるくると回して海水を汲み、身体の動きでたおやかな女性を演じる踊り子たち。かつての庶民の生活の何気ない場面が、芸能として蘇ってゆきます。
三曲目は「鞨鼓(かっこ)」。円筒の両側に皮が張られた打楽器の鞨鼓を鳴らす様子が、振りで再現されています。すると不思議なのが、踊り子の背後から響いている太鼓の音が、今までよりも大きく聞こえてくる気がしてくること。唄と踊り、そして太鼓、それぞれが活きる演目でした。
最も情緒的なシーンだったのが四曲目の「桜川」。京都の清水寺の境内には神社があるのですが、そこに咲き誇る桜の花びらの、風で散りゆく姿が川のように見えた場面が切り取られています。
扇と網を使って、川となった花びらを掬い、愛おしそうに花々を抱きしめています。風で散る桜の花びらは、現実では一瞬の出来事。そのわずかな光景を美しい芸へと昇華させる、当時の人々の美的感性を身に染みて感じたのでした。
最後は「三拍子」。踊り子たちは円を描きながら、袖を大きく振ります。近世に現れた傾き者(かぶきもの)を表現したこの踊りは、手足の動きも今までの演目で一番ダイナミック。賑やかな締めくくりとなりました。
披露された曲はすべて、太鼓が一定のリズム。つまり、同じ曲調でありながら、唄と踊りのバリエーションによって、いくつもの異なる情景が生み出されていたのです。
住民の思いが「郷土」となった
かつて京都の祇園祭と同じ日に踊られていたことから「祇園踊」と言われていたり、女歌舞伎や念仏踊との繋がりがあるとされていたりと、小河内の鹿島踊の起源にはさまざまな説があるそうです。踊りの誕生については不明瞭ではあるものの、その踊りは、ありありと当時の生活を映し出しています。
村を失ってもなお、伝え続けられる郷土芸能「小河内の鹿島踊」。舞いは、その土地だけでなく、踊り継ぐ人々の熱意の中に根を下ろしているのでしょう。