毎年7月の下旬、茨城県龍ヶ崎市上町の八坂神社祇園祭の最終日に「撞舞(つくまい)」が行われます。
国選択・県指定無形民俗文化財でもあるこの伝統芸能の、2022年開催時の現地レポートをお届けします。
目次
高所14メートルの柱上での弓射と曲芸
高さ14メートルの高い柱の上に、人間がポツンと2人。雨蛙の面を被った彼らは、この上で弓矢を放ったり、綱を渡ったりする。この奇妙で高度な技は、「とび職の勇者」によって受け継がれている。
つく舞という民俗芸能をご存知だろうか?日本全国でも類例が少ない、この芸能の魅力に迫りたい。そのような思いで、2022年7月24日に茨城県龍ケ崎市の八坂神社祇園祭で行われる撞舞(つくまい)を見てきた。
この記事では実際に撞舞を見た時の様子、見所などをご紹介して臨場感をお伝えすると共に、雨乞いの願いと結びつきながらも、現在のような「魅せる」要素の強い芸能になった由来や、諸芸能との違いを解説する。
撞舞を実際に見てきた
それでは、2022年7月24日に龍ケ崎市の根町撞舞通りで拝見した、実際の演舞の様子を振り返っていく。この日は地域の八坂神社の祇園祭の祭礼日。地元の人はもちろん、遠くから関鉄竜ヶ崎線に乗って駆けつけるお祭りファンの方々も見られた。
撞舞が行われた会場は、竜ヶ崎駅から徒歩10分ほどの場所にある「根町撞舞通り」。会場入り口では、入念なアルコール消毒が行われていた。
会場にたどり着くと、そびえ立つのは天にも昇るような14メートルの大きな「撞柱」!それを見守るのが通りをぎっしりと埋め尽くす観客たちだ。大勢の観客の視線を受けながらも、舞男に選ばれた勇者2人が撞柱をスルスルと登っていった。歓声とともに、柱の頂上にたどり着く。
周囲に高い建物がない分、遠くまで見渡すことができて、さぞかし足がすくむことだろう。昔は舞男の事故が起こって、不浄な場所ということで撞柱の位置を変更していたこともあったという。しかし、明治時代以降は大きな事故もなく、安全に配慮しながら継承されている。
一度、舞男に選ばれた人は年齢的な限界が来るまで、基本的には毎年続けていく。現在最年長の舞男は53歳という。とび職ということは普段から高い所に上るのも慣れているのだろうが、それにしても素晴らしい身体能力だ。
アクロバティックな技の数々!
舞男は撞柱のてっぺんに立ち、いくつかの技を披露した。主に4つの技が披露され、まずは「四方払い」と言って矢をてっぺんから東西南北に射かけていた。この矢を拾うと一年間災厄を免れるとされ、観客たちがホームランボールをキャッチするように、その矢を目指して走り回っている様子が見られた。
そのほかには、一本の綱をスーーと滑り降り、途中で止まって綱をぎゅっと掴み、空中逆上がりをするというかなり高度な技も見られた。もちろん安全防止の紐はない。己の身体のみを頼りに、技を繰り出す姿がどこか勇ましく感じられた。
そのほかにも、撞柱のてっぺんの横木に足を引っ掛けて、後ろに倒れるように仰向けになりながら扇子を広げるという技。あるいは、横木の中央にある円座で逆立ちをするなどの技が見られた。この時の様子はYoutubeやTwitterなどで動画が見られるので、ぜひご覧いただきたい。
空中での曲芸は圧巻の一言! #龍ヶ崎の撞舞 pic.twitter.com/WS5DK96ynX
— オマツリジャパン (@omatsurijapan) July 24, 2022
さて、一通りの演舞を終えて、雨蛙に扮した舞男は柱の根元へと帰っていく。頭が下になって向かっていく姿がどこか恐ろしい。しかし、危なっかしい場面は一度もなく、無事に終了した。
舞台から降りる雨蛙を目の当たりにすると、改めて迫力がある。黄金色に日焼けしている肌が、とび職としての誇りを物語っているようにも思えた。
それからは記念撮影の時間となった。舞男に抱っこされる子供の姿など、微笑ましい様子も見られた。雨蛙の面の前方に垂れている赤い布は舌を表し、後方に垂れている布はウロコを表す。近くから見ると、平たい雨蛙のお面の表情がとてもユニークである。
ところで、この「つく舞」はどのように生まれ、どのように発展して現在の形になったのだろうか。次の段落から解説していく。
つく舞の由来とは?
まずは名前の由来に迫っていきたい。つく舞のつくとは何であろうか?民俗学者の柳田國男によれば、つく舞の「ツク」とは高い柱のことであり、諏訪大社の御柱祭のように柱は神を祀るときの標識であるという。柱の上で曲芸を披露するようになったのは後世の話とのことだ。
一方で、『つく舞考』などの著者である古谷津順郎氏によれば、つく舞の語源はキツツキであり、その動きを見立てたものがつく舞だという。様々な説があるものの、その起源は古代の西域に遡り、漢の武帝の時代に中国に伝わり、日本には奈良時代に散楽の一部として伝来したことがわかっている。
日本でつく舞が成立した過程とは?
日本の奈良時代に伝来した頃のつく舞は「都盧尋橦(とろじんどう)」と呼ばれた曲芸の一種だった。日本の正倉院に保管されている散楽図にもこの絵図が残されており、竿の上で子供が曲芸をする姿も描かれている。東大寺大仏の開眼式典でも演舞したが、その後、官の保護から外れて民間に流布することとなる。それから同じく奈良時代に伝来した散楽雑戯の流れを汲む蜘蛛舞などの影響も受けながら発展。室町時代から江戸時代にかけて、見世物小屋で「魅せる芸能」として形態が変化していき、現在のつく舞へと繋がった。
龍ケ崎市の撞舞について
今回訪れた龍ケ崎市の撞舞は、つく舞を漢字表記した「撞舞」という名称で伝承されている。関東地方につく舞は4地域(茨城県龍ケ崎市、千葉県野田市・旭市・多古町)で伝わっており、約400年の歴史がある龍ケ崎が最も古い形態を今に残すとも言われている。昔は船頭が帆柱を使って演じていたが、それが徐々にとび職へと担い手が移行していった。一時戦時中に途絶えたことがあったが、昭和25年に復活して現在に至る。
撞舞の後はお神輿などが練り歩く
撞舞の後、帰ろうと思っていたら、まだまだ八坂神社の祇園祭の祭礼は続くようだ。高下駄を履いた猿田彦が登場し、上町中組の提灯を持った人が練り歩く。
その後ろに神輿も登場して、なかなか豪華な行列だ。オレンジの衣装が華やかで目立っている。19時にもなろうとしていたが、まだまだ祭りは終わりそうにない雰囲気だ。
しばし、祭り気分を味わいながら、会場を後にした。
地域の願いが託された撞舞
このように茨城県龍ケ崎市の撞舞という行事は、大陸から伝えられてきた芸能の系譜に位置付けられる一方で、雨乞いや祇園信仰と結びつき土地に根付いた。
一説によれば、撞舞に登場する撞柱は龍であり、この龍が雨蛙を飲み込む様子を表している。ただし、飲もうとすると龍の口に轡がはめられているので飲み込むことができず、それに苛立った龍が天に昇り雨を降らせるともいう。
つく舞の所作には全て意味があり、400年以上前から続く人々の土地との向き合い方を今に伝えてくれている。地域の人々はとび職のプロに想いを託し、その期待を一身に背負った舞男は一年に一度、天に近づくのだ。練習期間はたった7日間とも聞いている。神がかった技が光る撞舞の魅力を堪能できた1日だった。
参考文献
龍ケ崎市編さん委員会『龍ケ崎市史 民俗編』(1993年3月)
龍ケ崎市歴史民俗資料館『企画展 「利根川流域のつく舞」』(1994年6月)
古谷津順郎著 橋本裕之解説『つく舞考』(2002年4月)