珍しい初午(はつうま )行事が、富山県南砺市利賀(とが)村にある。見た目は馬の頭を戴く獅子舞のように見える。約200年の歴史があり、子どもたちのみで実施されてきた。ただ、現在は活動休止中となっている。
なぜこのような行事が生まれたのか?それには利賀が豪雪地帯であり、かつて冬は陸の孤島だったことなどが関係していた。時代の変遷とともに役割が変化していった、この行事の実態に迫る。
初午とは?
まず、この南砺市利賀の初午行事の概要に触れておきたい。毎年1月に家々を訪ね回り、最初に神主が家の大黒柱の前で祝詞をあげる。それに続いて幕を被った2人の子どもが演じる午(うま)が、歌や太鼓に合わせて踊る。その後、俵を重そうに転がし、終わりに家々に「火の用心、福の神」と書いた紙を置いて家内安全・五穀豊穣を祈願するという流れだ。
この行事の始まりは200年ほど前で、19世紀初めの文化年間(1804~1817年)頃には行われていたとされる。昭和57年には文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。
利賀村に行ってきた
この行事を知ったきっかけは、富山県在住の方のブログで「馬の獅子舞」があるという内容が書かれていたのを見たからだ。利賀村の公民館に問い合わせたところ、「地元の方々の誇りとなっているこの行事は担い手不足などの理由があり、現在は行っていない」とのこと。
しかし、その祭り道具はきちんと大事に保管されているようで、長年この行事を見守ってこられた笠原一忠さんをご紹介いただいた。そこで2023年2月15日、この方にお会いすべく、南砺市利賀村を訪れた。
お話を伺ったのは、地域の祭り道具などが保管されている元小学校の上村公民館という場所だ。現在は畳が張られており、綺麗に整備されている。ここで笠原さんに初午で使われた道具や動画を見せていただいた。
土地に根ざした初午行事
ーー本日はよろしくお願いします。この行事が始まったきっかけを教えてください。
笠原さん:この辺りは合掌造りの建物があり、2階部分で蚕を飼って養蚕をする暮らしをしてきました。この芸能が始まったのは、約200年前です。
今でこそこの辺りは除雪して道が空いてますが、昔は陸の孤島となって隣の集落でさえもいけなくなったんです。そんな時に、大人が子どもにちょっとした楽しみを与えようということで、初午の行事が始まりました。昔、さまざまな地域を回っていた門付芸をヒントにしたとも言われています。
笠原さん:午の頭は藁を使っており、これは昔なら誰でも持っていました。今はコンバインで刈って、全部田んぼにばらまくのでなかなか持っている方はいないですね。それこそホームセンターに売っているのが普通です。
笠原さん:「胴体部分は獅子舞の幕を利用した」という話もありますね。うちの村には中に10人も入る大きな獅子舞もあるのですが、その獅子舞にも同じような模様があります。
ただし、初午の幕には養蚕繁栄の願いを込めて繭(まゆ)が描かれているんです。特注で作ってもらったんですよ。ここには家内安全や五穀豊穣の願いも含まれています。
笠原さん:昔は地域の家に靴を履いたままで入り、板の間で踊って、中の人を驚かせるということをしてましたよ。家の造りが皆一緒だったので、板の間があったんです。住人を驚かせるのが、子どもたちの楽しみでした。
冬なので地面は雪で覆われていますから、靴が泥だらけになるということはありません。だから、土足で家の中まで入っていけるんです。でも近年はちゃんと「こんにちは!」と挨拶して入っていくことが多くなっていました。
ーー午を踊ってから行う俵転がしには、どんな意味があるのですか?
笠原さん:俵転がしは、お米の豊作を祈願するものです。俵を転がすときは、もっと重そうに持った方が良い!など、(先代の方から)所作にいろいろな指導が入りました。
うちの神社に奉納している養蚕の神様は、大黒柱のところに立てかけます。その前で祓い給え清め給えという祝詞も述べます。法被は衣装が昔はなかったので、林業などの仕事をしている時の衣装を着て実施したという話もありますね。
ーー近年はどのくらいの数の集落を回っていたんですか?
笠原さん:21軒ですね。もっと昔は30軒以上ありました。役場、農協、森林組合も回ったんです。いつも1月15日に行っていたのですが、次第に第2土曜か日曜になりました。朝の8時から始まって午後の2時か3時には終わるという流れです。ご祝儀は3000円~5000円ほどですね。子供たちはお餅やお菓子やみかんなどがもらえました。
担い手育成と継承の葛藤
ーー初午行事の変遷について伺いたいです。
笠原さん:ずっと1月に家を一軒一軒回る初午行事として継承されてきました。それが昭和44年にNHKテレビの番組の出演をきっかけに、地域行事だけでないところでも初午を披露する機会ができました。出演のとりまとめや、行事をしっかり伝えていこうという目的で、「利賀初午保存会」も設立されました。
昭和60年ごろからは、蕎麦を売ってイベントを作ろうということで「蕎麦祭り」というイベントが開催され、秋の収穫祭のお祭りも始まり、それらのイベントで初午を披露することもありました。
ーー初午行事はいつから休止しているのですか?
笠原さん;昭和50年代から担い手不足が顕著になり、それまで男の子だけで行ってきた行事に女の子も参加するようになりました。2020年は開催できたのですが、その後3月くらいから新型コロナウイルスが流行し始めて、開催ができなくなってしまいました。この行事はもともと、家々を回って行なう行事ですよね?だから、子どもが家を訪ねていくというのは、高齢者のお宅が多いのでリスクが高いという判断になるんです。
今年はなんとかコロナは鎮まってきましたが、今度は担い手がいなくなってきており、核になる中学校3年生2人が受験関係で参加できないことになってしまい、なかなか開催が厳しい状況です。担い手は中学校2年生までで、3年生からは受験になります。本当は子どもから子どもへと伝えてきたのですが、最近は子どもの役割を親が決めて、開催している状況でした。
ーー他地域に担い手を頼むことはあるんですか?
笠原さん:他の地域の子どもを担い手として入れたら、その地域にも初午をしに行かないといけません。それと核になる子どもがいない状況で、他の地域から助っ人を入れるということは本来の地域行事の意味が違ってきます。一人でも集落に子どもがいれば、その子どもを助けるために助っ人を入れるということも自然にできますが…。
もしくは学校に協力を頼もうとすると、地域行事ではなく学校行事としての色が強くなります。そういったせめぎ合いと葛藤の中で、この行事は続けられてきたんです。
ーーこれから初午行事について考えていることはありますか?
笠原さん:この行事は大人が子どもに代わって行える行事ではありません。子どもが可愛らしく歌い、踊って初めてこの行事は成り立つんです。大人はお酒に酔った余興で、昔やった初午を思い出しながらやってみるという人もいます。ただ、やはり元になる子どもがいなくてはなりませんね。
ーーなるほど、子どもがいるということがやはり大事ですよね。本日は貴重なお話をありがとうございました。
民俗芸能は時代背景とともにある
子どもが地域行事として繋ぐから意味がある。そういうことを深く実感した取材だった。
閉鎖的な雪国で、子どもがたくさんいたという状況。それが、初午行事を生み出した原動力だった。今となっては、除雪作業が行われ綺麗な路上を車が走る時代だ。高齢化が進み子どもは少ない。そのような村内の環境変化が、初午行事に大きな影響を与えている。
今だからこそ継承される、民俗芸能のかたちとは何だろうか?無理やり継承するのもよくないが、先代が築いた貴重な行事でもある。他の地域行事との兼ね合いの中で、何を残すかというせめぎ合いもあるだろう。
人口減少が進む規模が小さい村は日本全国に存在する。これからの地域社会の未来を考えながら、残すことと続けることを真剣に考え続ける人々に、注目していきたいと改めて感じた。
<参考文献>
富山県利賀村教育委員会『利賀のはつうまー国選択「利賀のはつうま行事」調査報告書ー』(昭和63年3月)
トップ画像提供:笠原一忠 様, 2018年撮影