1570年に浜松城を築城した徳川家康。青壮年期の29歳から45歳までの17年間の在城中に、生涯最大の敗戦ともいわれる「三方ヶ原合戦」などの苦難を経て、天下取りの第一歩を歩み始めます。また、江戸時代で歴代の浜松城主からは、幕府の要職である「老中」や「京都所司代」等に抜擢される人物が多く輩出されたことから、後に「出世城」と呼ばれるようになりました。
そんな浜松で5月3日~5日に開催される「浜松まつり」に、今年は大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康役を演じる松本潤さんが家康として騎馬武者行列に登場。さらに見逃せないおまつりとなりました。家康にとって浜松はどんな場所だったのか?乃至政彦さんにお伺いしました。
徳川家康、浜松城へ移る
元亀元年(1570)、三河の岡崎城主だった徳川家康が、遠江の「引間(引馬、曳馬とも)」に居城を移した。そして天正6年(1578)に城名を「浜松」に改めたという。現地は改名前から「浜松」と呼ばれていて、その高原を「引間野」と呼んでいた。
現地には昔から「浜松」(10世紀に編纂された『和名類聚抄』に「波萬萬津[はままつ]」と記録されている)という地名があったが、その一部が「引間」で、そこに築かれていたことから「引間城」と名付けられていたのである。
ところが理由は詳らかでないが、家康は新しい城を引間から「浜松」へと改名した。そればかりか「引間原」と呼ばれる広原も異称である「味方原(三方原)」を積極的に使うことで、引間の名前は斥けられていった。
まるで「横浜市」の統治権を得た為政者が、政庁を同市に移して、「これからはここを神奈川市とする。もう横浜市ではない」と宣言するようなものである。
もともとこの地は今川氏真の勢力圏で、家康はこれを力づくで奪い取った。このため、今川時代の記憶を払底しようとしたとも考えられる。ただ、先の例でいうと、この為政者には横浜市だけでなく、神奈川全域を支配しているように印象づけたい野心があったのかもしれない。
引間から浜松への改名は、家康が引間だけでなく浜松一帯の統治者であることを内外に知らしめる意思もあったと考えられる。
家康の奮闘と浜松の発展
改めて浜松を拠点とした家康は、甲斐の武田信玄・勝頼と戦いながらもこの地を守り通した。その後、天下を支配せんとする豊臣秀吉とも争ったが、やはりこの地を守り通した。これだけ強力な大名たちから攻められて、御家滅亡の危機に瀕していたのに、家康はこれらの困難を見事に乗り越え、浜松の地を守り通してきたのである。
その間、浜松城も大きく育てられた。三河・遠江両国を統治する戦国大名の居城にふさわしく、大きく改築されたのである。天正5年(1577)には規模を拡大。ここでもとの本丸より西側の高地に天守台が築かれ、浜松一帯を遠くまで見渡すことができるようになったという。
出世城から広がる家康の願い
ちなみに同年3月、家康はもとの主君で、宿敵でもあった今川氏真をこの浜松城に客人として迎え入れ、歓待している。引間から浜松への改名はこの翌年のことと伝える史料もある。
氏真も浜松城の威容を目にして、「あの松平元康が、こんなに立派になったか」と過去のわだかまりを洗い流したのではないか。
それから8年後の天正14年(1586)末、家康は駿河の駿府城に拠点を移した。浜松城はそれまで約16年間、その艱難苦難を家康とともに歩み続けていた。三河岡崎から遠江浜松へ、浜松からまた駿河駿府城へ。家康の大きな出世ぶりを見守った浜松城は、現在「出世城」と称され、パワースポットめいている。
明治以降、浜松は工業都市としての歩みを進め、現在は政令指定都市にまで出世した。家康のみならず、家康が親しんだ人々と土地も大きく発展しているのである。
そして今年(2023)の5月5日、NHK大河ドラマ『どうする家康』で徳川家康を演じる松本潤さんが、家康役として「浜松まつり」に参加することになっている。
きっと家康も松本さんの目を通して、久しぶりの浜松を楽しまれることだろう。
厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)──。家康は、後世を生きる我々が、今の世を「浄土」として楽しみあい、喜びを広めあうことを心より求め、願っておられるに違いない。