2023年9月17日、富山県南砺市で「城端むぎや祭」が開催されます!
ここで披露される「麦屋節/踊り」は日本民謡の中でもよく知られたものですが、
そのルーツをめぐっては興味深い謎があるとのこと。ここでは2020年に公開された「麦屋節」の歴史に迫るレポートとともに、2023年「城端むぎや祭」の開催情報をお届けします。
目次
民謡「麦屋節」の歴史に迫る!
日本民謡の中でも有数の知名度を誇る麦屋節。本場である富山県の五箇山と城端では、毎年9月下旬に麦屋節が主役のお祭りが開催されます。
麦屋節といえば、平家落人伝説が非常に有名です。しかし、そのルーツは佐賀県のとある島にあるのはご存知ですか?
そこで、今回は麦屋節の歴史についてご紹介していきます!他の富山県や石川県の民謡にも触れるので、もっと日本の民俗文化に関心が深まるかも?
麦屋節の「平家落人伝説」について知ろう!
「麦や菜種は二年で刈るが…」という歌詞で始まる麦屋節。
民謡としては一般的な七七七五調の歌詞でありながら、「アイナ」などの囃し言葉が多様される、独特な節回しが特徴です。歌と同時に演奏される楽器は三味線、胡弓、太鼓、そして竹の板を打ち鳴らす「四つ竹」が一般的で、それに尺八が加わる場合も。踊り手の服装は紋付、袴、白たすき、そして刀を腰にさし、笠を主に回転させて踊ります。
麦屋節の起源ですが、一番広く知れ渡っているのは現地での祭りや公演で言及される「平家落人伝説」ではないでしょうか。民俗舞踊家の中山義夫はその内容を以下のようにまとめています。
「寿永のむかし、平家の一族が倶利伽羅峠の戦で源氏の紀州に敗れ、その落人たちは、当時荘園であったこの地に逃れてここを安住の地と定め、山樵農耕の生活を続けて来ましたが、麦屋節はこうした落人達の間にうたい踊られたもので、ひなびた上品さの中にどことなく哀愁を感じさせる独特さがあります。」(日本文芸社「日本の民踊」より引用)
また、落ち延びるきっかけとなった戦いですが、上述の他にも屋島の戦いや壇ノ浦の戦いなどいくつかの説が存在します。いずれにせよ、歌詞や踊り手の服装からも分かるように、現在の麦屋節と平家落人殿説には深い関わりがあります。
しかし学術的にみれば、「平家落人伝説」はあくまでも麦屋節が映し出す「世界観」でしかありません。というのも、麦屋節を民謡という観点で見た場合、全く別の歴史が浮かび上がるからです。そこで、ここからは言い伝えなどをもとに、早速その歴史を辿っていきましょう!
ルーツは佐賀県にあり?「馬渡島の民謡」
なぜ「平家落人伝説」は麦屋節の起源ではないと考えられているのか?一例として、地元の郷土史家であった高桑敬親氏は以下の3点を理由として挙げています。(高桑敬親「五箇山民謡之研究」1949, 2)
1.現在における踊り手の服装や刀の差し方は、平安時代や鎌倉時代では見られなかった
2.平家の落人が五箇山に逃げ込んだという、明確な根拠が存在しない
3.歌詞以外に、平家落人伝説に関連する影響が見当たらない
では麦屋節はどこで生まれたのか?麦屋節の旋律をもとに推論すると、なんと佐賀県の北西部に位置する「馬渡島(まだらしま)」という場所にたどり着きます!古くから航路の要所であったこの島では人々の交流が盛んであり、その過程で「まだら」と呼ばれる舟乗りの歌が形成されたと考えられています。(瀬賀 「石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について」1993, 26)
それでは、「まだら」が全国へ広まる過程を見ていきましょう!
海を伝って全国へ!「北前船とまだら節」
どのようにして佐賀から富山まで伝わったのか?その鍵と考えられているのが、「北前船」を中心とした海上交通です。「北前船」は廻船を用いた海運のことで、江戸時代に日本海沿いで活躍していました。
当時の船乗りは各地の寄港先で停泊した際、海上安全を祈るために酒宴の場で「まだら」を歌っていたそうです。(石川県教育委員会文化課「石川県の民謡: 民謡緊急調査報告書」1981, 268)その結果、西は長崎、そして北は秋田という広い範囲に「まだら」が伝わり、またそれを礎として地元独自の民謡が形成されました。(瀬賀 「石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について」1993, 26)
無論、北陸地方も例外ではありません。特に石川県や富山県の沿岸部では、「まだら」やその流れを汲んだ「めでた」と呼ばれる民謡が伝わりました。現在でも七尾まだらや新湊めでたなど、数多くの民謡が各地のお祭りや大会で披露されます。
しかし、五箇山はあくまでも「陸の孤島」。ということで、次はどうやって「まだら」が五箇山へもたらされたのか見ていきましょう!
どうやって城端・五箇山へ伝わった?「輪島の能登麦屋」
五箇山の麦屋節を知る上で重要なのが、石川県の輪島崎に伝わる「能登麦屋節」。石川県によれば、祝い歌として伝わった「まだら」が、現地で素麺を作る際に歌う作業歌へと変化したものであると考えられています。(石川県教育委員会文化課「石川県の民謡: 民謡緊急調査報告書」1981, 268)
そしてもう一つ重要なのが、地元の特産品である輪島塗。民謡調査者の町田嘉章は、漆掻きの際に五箇山へ訪れた職人によって「能登麦屋節」が伝えられてのではないかと考察しています。(酒井与四「五箇山の民謡 」1993, 7)確かな証拠は存在しませんが、五箇山が漆の原料の産地であり、また五箇山のさらに奥地に位置する白川郷でも「白川輪島」と呼ばれる、「まだら」系の民謡が現存していることを考慮すれば、十分説得力があるのではないでしょうか。
以上のような経緯によってついに「まだら」を祖先とする民謡が五箇山まで伝播しましたが、当初はテンポも遅く、祝儀などの場面で歌われていました。転機となったのは、嘉仁親王(後の大正天皇)が富山に訪れた1909年。皇太子の前で披露するにあたり、地元の青年によって結成された麦屋団は曲の速さを変え、また新たに考案された笠踊りを組み込んだことで、現在の「麦屋節」が生まれました。(越中五箇山麦屋節保存会「百周年記念誌」2009, 10)その後、麦屋団は1925年に保存会へと発展し、同年に東京で行われた「全国郷土芸能大会」に出演したことで、麦屋節の名が全国に広まることになります。(酒井与四「五箇山の民謡」 1993, 6)なお、現在では変化以前の歌を「長麦屋」と呼ぶことで、現在の麦屋節と区別しています。
では最後に、どのように城端へ麦屋節がもたらされたのかを見ていきます!
城端と五箇山で麦屋節はどう違う?
佐賀県の島で発祥し、五箇山で完成した「麦屋節」。1925年に五箇山の麦屋節保存会が城端で公演を行ったことで刺激を受け、同年に城端町の有志によって「城端麦屋新声会」という団体が設立されました。
城端の麦屋節は五箇山とどう違うのか?五箇山の旧上平村教育委員会は、相違点として以下の2点を挙げています:(酒井与四「五箇山の民謡」 1993, 10)
1.細かな節回しが少し違う
2.城端では町内ごとに少しずつ違った踊りを創作する
その後は、1951年に麦屋節の祭りである城端むぎや祭が開催され、現在に至ります。
「日本の原風景」があふれる五箇山と、「越中の小京都」と称される城端。祭りの規模や町の雰囲気が違うので、両方参加してそれぞれ違う雰囲気を味わってみては?
おわりに
いかがでしたか?五箇山には、下梨地区の麦屋節保存会から同じく習った利賀村の利賀麦屋や小谷の早麦屋など、まだまだ麦屋節のバリエーションが存在します。ぜひ来年以降に五箇山や城端のお祭りに参加することで、それぞれの特徴を楽しんでみてください!
2023年「城端むぎや祭」の開催情報!
日程:2023年9月17日(日)
場所:城端別院善徳寺・城端伝統芸能会館じょうはな座、城端市街地
アクセス:東海北陸自動車道福光ICから車で3分/JR城端線城端駅からすぐ
主なスケジュール:
・麦屋節コンクール全国大会(じょうはな座会場)8:30~13:15
・むぎや節新歌詞表彰式(じょうはな座会場)13:30~14:00
・むぎや踊り講習会(善徳寺前交差点)〈雨天中止〉13:00~14:00
・アトラクション
/じょうはなじゃんとこじゅにあ2023(じょうはな座会場)14:30 、
(善徳寺前交差点)15:10
/式年太鼓保存会 14:00 善徳寺会場
・むぎや踊り競演会(じょうはな座会場) 14:30~20:00、(善徳寺会場 ※雨天中止の場合あり)14:00~20:00
・総踊り(西町通り)〈雨天中止〉20:00~
<本記事は、以下の文献を参考に作成されました(順不同)>
中山義夫「日本の民踊」日本文芸社, 1964.
高桑敬親「五箇山民謡之研究」1949.
越中五箇山麦屋節保存会「百周年記念誌」, 越中五箇山麦屋節保存会, 2009.
酒井与四「五箇山の民謡 : 上梨谷を中心として」上平村教育委員会, 1993.
瀬賀 章代「石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について」歴史地理学 (165) 1993, 25-37
中村義朗 「富山県民謡の概要」県民カレッジテレビ放送講座テキスト 平成12年 第1回, 富山県, 2000.
石川県教育委員会文化課「石川県の民謡: 民謡緊急調査報告書」石川県教育委員会, 1981.
金沢市民謡協会「能登麦屋節(輪島市門前町地区)」アクセス日:2020年09月28日