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「音楽に合わせて踊ったら心が解放された!」:「マツコ」の番組にも出演した伝説の踊り子・とび喜代が盆踊りに熱狂した理由

2022/6/10
2024/3/7
「音楽に合わせて踊ったら心が解放された!」:「マツコ」の番組にも出演した伝説の踊り子・とび喜代が盆踊りに熱狂した理由

コロナ渦で日本から祭りの灯(ともしび)が消えてしまった2年間。2022年の今年は、ようやく全国各地でお祭り復活の兆しが見えつつあります。盆踊好きの筆者としても、盆踊り大会の再開に期待したいところです。

さて、「盆踊り」といいますと、その魅力の一つとなるのが、誰もが自由に参加して踊れるというところ。基本的には地域の方々が参加して楽しむものという前提はありつつも、最低限のルールやエチケットを守れば、基本的には誰もが踊りの輪の中に飛び込んで、一緒に盆踊りを楽しむことができます。それだけに、盆踊りの参加者も多種多様。地元の人もいれば、通りがかりに飛び入り参加した人、遠方からその盆踊り目当てに遊びに来た人など、動機もさまざまです。

普通であれば、踊りの輪の中ですれちがって、そのまま通り過ぎてしまう人たち。この記事は、盆踊りに参加する「その他大勢」の中の一人にフィーチャーし、盆通りにハマるまでのストーリーを語っていただくという企画です。

今回登場いただくのは、大阪在住で、盆踊りにハマりすぎて『マツコの知らない世界』にも出演したという豪の者。盆踊りによって人生を変えられた、その半生についてお話を伺いました。

踊りが好きすぎてNHKに取材された過去も

と、いうことでやって来ました大阪に。大阪の盆踊りといえば、河内音頭、江州音頭が有名ではありますが、今回取材をさせていただく方が、大阪府八尾市のショッピングモールで開催される河内音頭の盆踊りイベントに参加されるということで、駆けつけました。

ちなみに「盆踊りなのにショッピングモール?」と怪訝な顔をされる方も多いかと思いますが、盆踊りの盛んな大阪では、夏以外にもさまざまなイベントスペースでほぼ通年にわたって、盆踊りイベントが開催されているのです。

そんなこんないってるうちに、会場に着きました。さて、どこにいるだろうか…….?

イベント開始早々、踊りスペースに雪崩こむ踊り子たち。この中にいるはず。

あれは、まさか……(猫耳?)

この人だ。

小野
???:
久しぶり〜、よう来たねえ!

というわけで、今回取材をさせていただくのは、東大阪市在住の踊り子「とび喜代」こと、中村喜代子さんです。

とび喜代さんは「河内のマドンナ」の異名を取る、関西の盆踊り界では知らぬ者のいないほどの有名な踊り子さん。この道30年の盆踊り愛好家で、最大45夜連続で盆踊りに参加したこともあるという強者。踊りを愛するがあまり過去にはNHKや毎日放送などテレビに取材された経験も持ち、2018年には『マツコの知らない世界』(TBSテレビ)の盆踊り特集の中でも紹介されました(YouTubeで検索したら、色々な動画が出てきます)。

「とび喜代」という名前の通り、飛び跳ねるような動きを特徴とする、基本の型を大胆にアレンジした踊り方、100メートル先からでも見分けが着くであろうド派手な衣装。既定の盆踊りのイメージを覆すであろう、まさに「自由奔放」の言葉をほしいままに体現する踊り子です。

小野
小野和哉:
お久しぶりです、今日もお元気ですねえ! とても71歳には見えないです。衣装もあいかわらず、超ド派手!

小野
とび喜代:
いや今日はあんまり足痛くないから、くるっと回れたけど、膝の半月板がもうほとんどないからね、あんまり無茶はでけへん。調子いい時はすごくいいねんけど。で、今日は盆踊りについて話せばええんやったっけ?

小野
小野和哉:
はい! 盆踊りの魅力について、踊り子の視点から魅力を探ってみたいと思いまして、いつもエネルギッシュで自由奔放なとび喜代さんにお話が聞ければと大阪に来ました。どのようにして盆踊りに目覚めたのか、どのようにしてご自身のスタイルを確立したのか、いろいろと教えてください!

というわけで、イベント終了後に近くのフードコートで缶ビールをあおりながら、お話を聞かせていただきました!

これまでに作ったオリジナル衣装は100着

小野
とび喜代:
今日は昔の写真を持ってきて欲しい言うから、いろいろ持ってきたわ。ちょっと見てみてー。

小野
小野和哉:
わ、キャリーケースに大量の写真アルバム、ありがとうございます……。って、さっそく一つ開いてみたら、とんでもない衣装の写真が!(笑)

小野
とび喜代:
あはは、これは父親のお母さんからもらった赤い長襦袢をリメイクして作ったの。他にもいろいろあるよ。

とにかくセンスがずば抜けている自作衣装の数々

小野
小野和哉:
盆踊りは浴衣やハッピを着て踊るものというイメージを持ってる人が見たら、目ん玉飛び出るような衣装ですね(笑)。これ、全部ご自身で作られているんですか?

小野
とび喜代:
そうそう。これまで全部で100着くらいは作ってるかなぁ。こうやって写真を見てると、いまだにその衣装を作った当時のことを思い出すわぁ…….。

小野
小野和哉:
一着一着に思い出があるんですね。

小野
とび喜代:
うん。もともと衣装は人に作ってもらっていたんですよ。盆踊りにハマってしばらく経った頃、衣装を作るのが好きな人がおって、人にも作ってあげると聞いたので頼んだの。そしたらめちゃくちゃ地味な色のものが出来上がって、「すみません、これはちょっと地味やから……」って作り直してもらった。気ぃわるくしたかもしれへんけど(笑)

小野
小野和哉:
最初から派手好きだったと(笑)

小野
とび喜代:
そう。で、その人が、私が喜ぶのが嬉しい言うてトットコトットコ作ってくれはって。でもある時、姉から「友達からもらった白い夏物のワンピース、私着ないからあんたにあげるわ」って言われて、もらったの。でも私も着ないからどうする思ったら、ちょうど薄い紫の生地を持っていたので、それを組み合わせてハッピを作ってみようと思って。

小野
小野和哉:
それがきっかけで。

小野
とび喜代:
チョキチョキ作って。ほんなら私気に入ったんですよ、自作の衣装を。ちょっと作るのが難しい部分もあるんだけど、自分の体に合わせて自分で作るんやし、誰も何も文句言う人もいないやろうし。それで、自分で作るようになった。

コテコテの関西弁、でも出身は北海道

小野
小野和哉:
とび喜代さんの衣装にそんなエピソードがあったとは……。ちなみに、盆踊り自体は子どもの頃から好きだったんですか?

小野
とび喜代:
いやいや、そうでもないねん。私は北海道の初山別(苫前郡)という田舎の出身なんやけど、北海道の盆踊りには「子供盆おどり唄」「北海盆唄」の2曲があるんです。子どもの踊りは5時か6時の明るい時間からスタートして1時間くらい。そこから大人の時間なんやけど、私の父親は真面目な人やったから、娘を夜外に出すのが嫌いやった。

幼き日のとび喜代さん(前列右端)。学芸会でダンスをした時の写真だそうです。

小野
小野和哉:
なるほど。じゃあ子供の頃、盆踊りはあまり踊れなったんですね。

小野
とび喜代:
子ども盆踊りは許してくれたんやけど。だから、それが思い出に残ってるくらい。

小野
小野和哉:
っていうかとび喜代さん、北海道の出身なんですか!? コテコテの大阪人かと思った(笑)

小野
とび喜代:
そうそう。そもそも私のルーツを辿ると、祖父は青森の出身だったんやけど、ニシン漁で一旗上げようって、一攫千金を夢見て留萌(北海道留萌市)に来たらしいねん。

小野
小野和哉:
ニシン漁ってそんなに儲けたんですか?

小野
とび喜代:
最近、留萌のニシン漁に関する動画をみたんやけど、ニシンがとにかく獲れるから、昔は他所から何千何万と人が来たらしいよ。

筆者注:留萌管内初山別村のニシン漁は明治中頃に最盛期を迎えたようです。豊漁は村の発展に寄与し、富山や新潟、熊本が原野を開拓。約束されたニシンの漁獲が人を呼び寄せ、それこそゴールドラッシュのように地域は沸きましたが、大量のニシンは昭和33(1958)年の12トンの漁獲量を最後に、姿を消したと言います。
(参考:鈴木トミヱ・初山別郵便局共助会編『初山別村発…戦地の兵士にかもめの便り証言篇』北海道出版企画センター)

小野
とび喜代:
それでおじいちゃんは一発当てよう思って、当たらなかったのか、後に奥さんになる人を連れて初山別に駆け落ちしたんやって(笑)。そこらへん詳しい話は誰も教えてくれへんけど、おじいちゃんが情熱家やったということは聞いてるねん。だから私が北海道から大阪まで来たというのは、おじいちゃんの影響もあるのかなあ。

小野
小野和哉:
大阪に来たきっかけは何だったんですか?

小野
とび喜代:
今の主人と出会ったこと。
私、高校(羽幌高校)を卒業してタイプ学校に通い、札幌の苗穂にある会社に就職して、キーパンチャーの仕事を3年間していて。

とび喜代さん、キーパンチャー時代の写真。

小野
小野和哉:
出会いは、その時代までさかのぼるんですね。それにしてもキーパンチャーって当時としてはモダンな仕事だったんでしょうね。

小野
とび喜代:
キーパンチャーだけで5〜6人、専用の部屋で仕事をしていたんやけど、しょっちゅう別部署の男性が「見学に来ましたよ」って(やってくる)。女の子6人やし、なかでも秋田出身の子が秋田美人やったんよ。その子目当てで来てるのが、見え見えなんやな(笑)

小野
小野和哉:
なんかキラキラした思い出ですね〜。

小野
とび喜代:
みんなでダンスホールに行ってツイストやモンキーダンスで踊ったり、ボーリングに行ったり、旅行に出かけたり……(しみじみと)。札幌にいた頃が一番楽しかったなぁ。で、主人と出会ったのは、女の子の友だち3人と根室の旅行に行った帰り。電車の中で、3人組に声をかけられて、その中に大阪から旅行に来ていた人がいたわけ。それが主人。

小野
小野和哉:
ナンパされたんですか?(笑)

小野
とび喜代:
なんか知らんけど、喋りたかったんでしょ? ほんならうちの主人が鉄道マニアやって、入場券を集めてるって別れ際に言うから、じゃあ今度お盆に帰った時に地元の初山別とか羽幌とかその辺りの入場券送ってあげるわ、住所教えて言うて、ほんでお盆に集めて送ったの。それから文通が始まって。

小野
小野和哉:
それで交際するようになったんですか?

小野
とび喜代:
あっちはその気になってたけど、私はまだそこまで夢中になってないから(笑)。年末にプロポーズされて最初はいややって思ってたけど、ただ田舎に留まりたくないっていう気持ちも心のどこかにあって。中学生の頃も、クラブも何もしないで、テレビで『青春とはなんだ』(昭和40・41年放送の学園ドラマ)みたいなのを見てから、いつも家の近くの浜に行って、水平線を見てぼーっとしてたわけ。

小野
小野和哉:
水平線の向こうに行ってみたい、みたいな。

小野
とび喜代:
主人は大阪やから。でも、大阪は当時の私には、ちょっと怖いイメージがあった(笑)。でもおばさんが大阪にいて一年にいっぺんくらい、お菓子やら何やらを送ってきてくれたいい思い出があるから、天秤にかけた結果、おばさんのイメージをとってしまったのよね。

小野
小野和哉:
大阪に行けば世界が開けるかも、と結婚して大阪に行くことを決めたんですね。

アラフォーでまさかの盆踊りに開眼

小野
小野和哉:
大阪に来てすぐに盆踊りにハマったんですか?

小野
とび喜代:
22歳の時に大阪に来たんやけど、盆踊りのハマったのが42歳の時。

小野
小野和哉:
え!? けっこう、遅いタイミングだったんですね。

小野
とび喜代:
8月23日の地蔵盆に町内会で盆踊りをやるんやけど、当時、主人は子供会の会長をやっていたから、率先して踊らなあかんということになったの。踊りの苦手な人やったから「代わりに行ってくれないか」と言われて。自治会館に行って、婦人会の人に、河内音頭と江州音頭と炭坑節と、もう一つどんぱん節かな、なんか5つくらい教えてもらったの。

小野
小野和哉:
町内会がきっかけだったと。

小野
とび喜代:
最初は踊り方知らないから、足を覚えようおもたら手がでけへん、手を覚えようおもたら足がでけへん。だから見てるだけ、壁の花やったのよ(笑)。でも踊っているうちにだんだんと好きになってきて。でも、2〜3年経つうちに町内会の盆踊りがなくなってしまった。他所(の盆踊り大会)へ行こうおもたって、一人ではやっぱよう行けへんから。

小野
小野和哉:
その頃は、一人で盆踊り大会に行くということ自体、体面が悪かったんですね。

小野
とび喜代:
それで、子ども(四男)を誘ってみることにしたの。ちょっとちょっと、隣で盆踊りやってるよ、夜店もあるし、クジを引かせたるから一緒に行こう、言うて。それで、どんどんハマっていって(笑)。3回目か、4回目になったら「お母さん、僕家で本読んでる方が好きやから、お母さん一人で行っといで」っていうて。ほんならもうええかぁって一人で行くようになった(笑)

小野
小野和哉:
めっちゃ大人でいい子じゃないですか(笑)

盆踊りで踊っている時は「個人」になれた

小野
小野和哉:
それから猛烈に盆踊りに行くようになったんですか。

小野
とび喜代:
そう。でも家のことはせなあかんから、仕事から帰ったら子ども4人と主人とおばあちゃん(姑さん)、そして私6人分の晩御飯を急いで用意して。全部、用事を済ませてから、チャリンコ漕いで盆踊り会場に行ってた。

とび喜代さんが、盆踊りにハマりたての頃の写真。

小野
小野和哉:
いやー、めっちゃ大変ですね……。

小野
とび喜代:
『映像02』(毎日放送)という番組で取材された時は倉庫の仕事をしてたんやけど、冷房のない、ガンガン西日のあたるところで、ピッキングって知ってる? 注文が来たら荷物を出して出荷するという仕事なんやけど、重い荷物もあるからタオルでねじり鉢巻しながら働いて、それから踊りに行って……「私、あれ(番組)見て泣いたわ」って言われたこともある(笑)

小野
小野和哉:
身を削って踊ってたんですね。

小野
とび喜代:
そう、でも楽しかったよ。音楽に合わせて踊ってたら、心が解放される。踊っている時は、家のこととか何にも考えないで済む。音楽だけ聞いて踊るっていうのがすごい解放感があった。

小野
小野和哉:
その時間だけは、すべてを忘れられる。

小野
とび喜代:
そう、私になれる。私や。

小野
小野和哉:
「とび喜代」になれる。

小野
とび喜代:
うん。「中村喜代子」になれるねん。踊っている時は全部忘れられた。

「とび喜代」の名付け親はネカフェ店員

小野
小野和哉:
ちなみに、「とび喜代」って呼ばれるようになったきっかけはなんだったんですか?

小野
とび喜代:
盆踊りにハマり始めた時に、私高校の頃にバレーボールやってたから、人に頼まれてママさんバレーにちょくちょく行ってて。で、ある試合の最中に他の人と衝突して、脊髄損傷したの。

小野
小野和哉:
ええ!? 大事故じゃないですか……。

小野
とび喜代:
下半身麻痺になって絶対安静。病院に寝たきり口にお粥さん運んでもらって、下の世話もしてもらうような状態で、周りでは私はもうだめや、車椅子生活やと噂が回っていたみたい。

当時付けていたという日記にも入院に関する記述が生々しく残っている。

小野
小野和哉:
踊りどころじゃないですね。

小野
とび喜代:
入院して21日目に医者が「ちょっとベッドから立ってみるかい」言うから立ったら、めまいがすごくて怖い怖い。でもそこからまず平地に立って、廊下を歩いて、階段を上がり下がりしてとリハビリを重ねて。家族がいるから早く帰らしてくれ言うて、10日間だけリハビリをして家に帰った。怪我から回復した時は、立てる嬉しさ、動ける嬉しさ、歩ける嬉しさ。本当に嬉しかった。

小野
小野和哉:
それでまた余計に踊りが楽しくなった?

小野
とび喜代:
うん。弾けるようになった。前から一緒に踊ってるグループの人に「あんただけ踊りが違うね」と言われていて、自分はみんなと一緒の踊りしてるつもりやったから、そんな風に思わなかったんやけど、事故から回復してからは動けることが楽しくて、ちょっと飛んだだけでバネがついてるような感覚やった。

小野
小野和哉:
それで「とび喜代」に?

小野
とび喜代:
その頃、ちょうど商店街にインターネット喫茶ができてね。ポストに一回無料券の付いたチラシが入っててん。1カ月有効って書いてあるんやけど、度胸なくてなかなか行かれへん。もう今日で終わりやって日に思い切って行ったの。すみません、パソコンやりたいけど何からしていいんだかわからないんですよって。昔、キーパンチをしてたからちょっとはわかるんですけどって言った。

小野
小野和哉:
まさか、ここでキーパンチの経験が生きてくるとは!

小野
とび喜代:
ほんならマスターが「まずはホットメールのアドレス作ろうか」言うてくれて、アドレスにはハンドルネームつけなあかんって。「私ちょっと気ぃ弱いから、『姉御』みたいな名前つけたいねや」言うたら、「えー、なんやそんな姉御って」って。それで私が盆踊り会場で知り合いの兄ちゃんが「とび姉ちゃん」言うてくれてるって話をしたら、「じゃあ喜代子だから、とび喜代にせや」と。

小野
小野和哉:
なるほど! インターネットのハンドルネームから「とび喜代」が生まれたんですね!

『マツコ』の番組出演で息子からかけられた労いの言葉

小野
小野和哉:
それにしても、とび喜代さん。本当に盆踊りに出会えてよかったですね。

小野
とび喜代:
4人の子どもたちも、お母さんずっと大変やったから、好きなこと見つけてよかったねってずっと言ってくれた。でも長男だけはずっといい顔してなかったみたいで。赤いキンキラキンの衣装で踊ってるのを嫌がって。

小野
小野和哉:
確かに自分のお母さんがド派手衣装で踊り出したらドキドキするかも(笑)

小野
とび喜代:
でも息子(長男)かて、私の知らないところで『水曜どうでしょう』の大泉洋とかディレクターの藤村なんとかさんの追っかけして、北海道にしょっちゅう行ってた(笑)

小野
小野和哉:
お母さんと変わらないじゃないですか(笑)、凝り性なところは。

小野
とび喜代:
いや、そうやねん(笑)。でも『マツコ』の番組に出た時にやっと認めてくれた。お母さん、よう長いこと頑張ってきたなあって。

小野
小野和哉:
ようやくわかったんですね、お母さんの凄さを。

小野
とび喜代:
そう。実は私がテレビで取材されて放送されるってなった時に、反対してるくせに自分の恩師やら同級生やら、みんなに知らせていたらしいのよ。知らんかってん、私。

小野
小野和哉:
陰ながら実は自慢なんじゃないですか?

小野
とび喜代:
そうみたい。子供たち四人は、最終的には私の盆踊りを認めてくれた。あと、私すごく救われたことがあって。盆踊りにハマってからの話なんやけど、「おばあちゃん、ごめんねいっつも(盆踊り)行って」って義母に言ってみたのよ。

小野
小野和哉:
踊るに行くことが後ろめたかったんですか?

小野
とび喜代:
うん、毎晩踊りに行ってたから。ほんなら「いやいや、私もお茶やらお花やらなんやらで出てるし、私は踊りできひんから。うん、いいよいいよ」って言ってくれたの。それは救いやったわ~。下手に出たのがよかったのかな?(笑)

盆踊りの輪の中には、それぞれの物語がある

盆踊りの輪を俯瞰してみた時、それはただの人々の群れにしか見えないかもしれません。しかし、それぞれの人にはそれぞれの「踊る」理由、ストーリーがあるはずだし、その踊りの輪の中に入り込んだ自分自身も、同じような音楽や振り付けで一体感を得ながらも、やはり踊っている自分自身は「個」であると思うのです。

例えば供養の盆踊りであれば、誰か特定の故人を思い浮かべながら踊っているのでしょうし、ただの娯楽としての盆踊りであれば、自分の楽しみのためだけに踊っているのでしょう。

だから、盆踊りというのは、とても個人的であり、自由な踊りでありうるのだ。そんなことを、今回とび喜代さんのお話を伺いながら思いました。

と、まあ踊っている時はそんなに難しいことは考える必要はありません。踊りだって綺麗に踊れなくていいんです、どんなかっこうをしていてもいいんです、テンポがあってなくてもいいんです、心のおもむくままに、音頭に身を任せ、自分の踊りを踊る、一人の盆踊り好きとして、僕はそれでいいんだって思います。

それではみなさん、次は盆踊り会場で会いましょう!

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