“コンチキチン、コンチキチン”のお囃子とともに、豪華絢爛な山車が京の街を練り歩く山鉾巡行(やまぼこじゅんこう)、活気溢れる神輿渡御(みこしとぎょ)—。
日本三大祭りの1つとして有名なこの「祇園祭」は7月1日から31日まで、なんとひと月かけて行われる壮大な京都の夏の風物詩です。
祇園祭の始まりは、古く平安時代。大流行した疫病の退散を願って京都で行われた神事が起源とされ、途中幾度かの中断があったものの、「祇園信仰」のもと1100年を超え現在に受け継がれています。
奇しくも未だコロナ禍にある現在。疫病の災いをどうにか鎮めたいと願った当時の人々に思いを馳せながら、祇園信仰、そして祇園祭の起源と本質を紐解いていきましょう。
疫病退散、怨霊払いから始まった「祇園祭」
「祇園信仰」を理解するために、まずは「祇園祭」の成り立ちを見ていきます。
時は平安時代初期、京の町では疫病や災害がたびたび発生。薬もなく衛生環境も芳しくない状況で多くの人が亡くなりました。このような災いを当時の人々は非業の死を遂げたり、この世に恨みを持つ怨霊による祟りだと考えていたのです。
これを「御霊(ごりょう)信仰」といい、貞観5年(863年)には、この怨霊を鎮めるための国の儀式として、初めての「御霊会(ごりょうえ)」が現在も二条城のすぐ南にある神泉苑において行われます。
その後、貞観11年(869年)には京都だけでなく全国で疫病が大流行。この災いを鎮めようと、流行病をまき散らして広める行疫神(ぎょうえきじん)を祀り、当時の日本の国の数と同じ66本の鉾をたて神泉苑にて「祇園御霊会」を行いました。これが祇園祭の起源とされています。
では、「祇園」とは一体何を指すのでしょう?実は祇園は地名に由来するものではく、“信仰”からきている言葉なのです。
牛頭天王とスサノオノミコトが合体した「祇園信仰」
「祇園」と聞いて多くの人が思い浮かべるのが“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり”という「平家物語」の冒頭でしょう。祇園精舎はインドの寺院で、釈迦が説法を数多く行った仏教徒の聖地。鎌倉時代のこの書物にも登場するように、日本でも仏教伝来以後、認知が定着していたことがうかがえます。
この祇園精舎を守護するのが「牛頭天王(ごずてんのう)」で、先述の祇園御霊会で祀られた行疫神です。実はこの午頭天王こそ、今では山鉾巡行で有名な祇園祭を神事とする京都の八坂神社の御祭神なのです。
牛頭天王は乱暴者の荒ぶる神であり、行疫神でありながら、祀ることで逆にその強い力で災厄を祓い防いでくれる神として、祇園様や祇園さんと呼ばれ信仰を集めるようになります。
江戸時代が終わるまでの日本では、古からの神道の「神」と大陸から渡来した仏教の「仏」を融合し、一体化させて信仰する「神仏習合」が一般的であったため、牛頭天王は同じように荒ぶる神であり、災厄防除の力を持つとされる日本古来の神「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」と同一視されるようになりました。
さらに、牛頭天王と習合した素戔嗚尊はそもそも備後国風土記に「武塔天神(むとうてんじん)」として登場し、下記のように有名な故事が伝わっています。
「北海の神である武塔天神は旅の途中、裕福な人に泊めてほしいと頼んだが断られ、その兄である蘇民将来は貧しいながらも快く武塔天神を受け入れ、もてなしてくれた。
これに感動した武塔天神は自分はスサノオだと名乗り、後に疫病が流行したら“蘇民将来の子孫である”と言って目印となる「茅の輪」を腰に付けよと告げる。そのとおりにしたところ蘇民将来一家は災いを免れ、一族は繁栄した。」
今では一年の前半最後の6月30日は「夏越の祓」として、くぐることで厄除けになる巨大な「茅の輪」が神社に設けられます。祇園祭ではおなじみの厄除けの護符には「蘇民将来子孫也(私は蘇民将来の子孫です)」と書かれ、お守りの粽(ちまき。元は茅巻きという説あり)に付いていたりもします。
これらの行事が、上記の神話を元に広く現在にまで受け継がれているのは、祇園信仰がどれだけ民衆に親しまれていたのかを物語っているのではないでしょうか。
また興味深いのが、この蘇民将来の故事を受け、“茅の輪代わりのお札さえ貼っておけば疫病から逃してもらえる”として、行疫神だった牛頭天王=素戔嗚尊を疫病逃れの神として一心に信仰するようになる、このあたりの都合のよい柔軟性に、ある種の日本人らしさやたくましさを感じます。
現在、祇園祭は“八坂神社の祭礼”ですが、八坂神社は素戔嗚尊(=牛頭天王)を祀り、長らく「祇園社」「祇園感神院」と称する神仏習合の寺院でした。
改称されたのは明治元年(1868年)。神道の国教化を目指した明治政府が発した神仏分離令をうけ、仏教的要素を切り離さなければいけなくなりました。名称からは「祇園」が排除され、鎮座する地名である「八坂」を用い、八坂神社へと改名することとなったのです。それでも京都の人々が親しみを込めて八坂神社のことを「八坂さん」のほかに「祇園さん」とも呼んでいるのは、このような背景があるからなのです。
祇園信仰はなぜ広まった?全国各地で行われる「祇園祭」
祇園信仰・祇園祭が全国に広がったのは、まず“疫病退散”というシンプルさと万人に共通する重要性が1つの要因でしょう。京都を始め全国各地の祇園祭の多くが、菌やウイルスが繁殖し疫病が流行しやすい夏場に行われることがそれを示しています。現代と違い衛生環境が悪く特効薬などもないかつての日本では、疫病にかかることは文字通り死活問題だったはず。生活環境の衛生面が格段に向上するのは江戸時代になってからなのです。
そしてもう1つの要因は、祇園祭そのものが“自分の共同体を守るため”の行事になったこと。それまで貴族の神事として質素に行われてきたものが、応仁の乱を境に街から貴族がいなくなり、自治の主導権が京の町人=商人に取り変わったことで大きく変化します。
そんな自治都市形成のなかで“災いは私たちのコミュニティから出て行け(自分のコミュニティが第一)”となり、その自治を通じ町民は結束。その証としてそれぞれのコミュニティが見せつけるかのごとく他にない山車に仕上げていった—。それが“動く美術館”と称される、ダイナミックかつ絢爛豪華な山鉾巡行につながっているのです。
お金のある商人はこれでもかと山車を飾り立て、面白い物、新しい物をうまく取り込み、華やかで人目を引く風流(ふりゅう)を発展させ、神様をおもてなししたのです。祭を神事と風流による華やかな行事の2つを行ってきたスタイルは、日本の祭の1つのあり方を決定していったといえるでしょう。
「祇園祭の山鉾行事」としてユネスコの世界無形文化遺産に登録されているなど、あまりにも有名な京都の祇園祭ですが、実は祇園祭は全国各地で行われています。
日本三大祇園祭として京都祇園祭に並ぶ「会津田島祇園祭(福島)」や「博多祇園山笠(福岡)」は有名ですが、祇園信仰をもとに行われる祭祀や行事には「祇園」のほかにも「八坂」「天王」「須佐」など、祇園信仰に所縁のあるキーワードが絡んでいます。オマツリジャパンにも各地の祇園祭についての記事がありますので、ぜひチェックしてみてください。
無病息災を願い、お囃子のなか鉾を曳き、神輿を担ぎ、町中を練り歩く−−。祇園祭は今日に続く都市型“夏祭り”の源流を形作ったともいえます。
1100年を超える歴史の中には、応仁の乱といった未曾有の戦乱や社会情勢の変化、幾多の天災による中断がありました。時に数十年にもわたる中断を経て、なお途絶えることなく受け継がれた背景には、あらゆる困難な事象や危機もしなやかに強く乗り越えてきた“日本人らしさ”“町人のたくましさ”が見え隠れします。
自然も動物も、日本のものも海外から来た物も「神仏習合」も、疫病払いに効果があるものを受けいれ、作り上げてきた祇園祭。祇園信仰を理解したうえで楽しむ今年の祇園祭は、きっとひと味もふた味も違うはずです。
トップ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより『十二月遊ひ 2巻. 上』