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角兵衛獅子とは?なぜ全国で大人気となり急に消滅した?復活の演舞を月潟まつりで見て理由を探る

更新日:2022/7/12 いなむ
角兵衛獅子とは?なぜ全国で大人気となり急に消滅した?復活の演舞を月潟まつりで見て理由を探る

角兵衛獅子という獅子舞をご存知だろうか?越後獅子や蒲原(かんばら)獅子とも呼ばれる、旧新潟県西蒲原郡月潟村を発祥とする郷土芸能だ。

獅子舞といえば、お正月に頭をパクパク噛んでくれるものと思っている方も多いと思うが、それだけではない。大道芸にも近い「角兵衛獅子」は、頭にちょこんと獅子を乗せた子どもたちが、逆立ちやブリッジをしたり、肩車をしたりと難易度の高い芸を見せていくのだ。

角兵衛獅子は江戸時代から明治時代にかけて、日本全国で大流行した。角兵衛獅子の魅力とはどんなところにあるのか?歴史を紐解きながら、先日訪れた月潟まつりの角兵衛獅子の様子をご紹介して、その真相に迫りたい。

角兵衛獅子が生まれた背景

まず角兵衛獅子の始まりについて触れておきたい。角兵衛獅子の故郷・新潟県月潟といえば、信濃川の支流・中ノ口川という大河に近く沼地であったうえ、川の氾濫により作物がなぎ倒され飢餓に苦しむことも多かった。それゆえ、米をはじめとした農作物の生産に頼りきることなく、諸国を巡業して芸能を披露し、資金を稼ぐようになったようだ。

一方で、常陸国、水戸の住人であった角兵衛にまつわる話も残されている。この人物は水戸から月潟村に移り住んだが、何かがもとで殺害されてしまった。角兵衛は殺される時に、相手の足指を噛み切ったと言われている。残された角兵衛の息子の角内・角助は大衆の中で逆立ちすることを思いつき「あんよ(足)を上にして、あんよの指のないものを気をつけて見れ」と言っていたという。つまり、足の指が目線の先にくる姿勢で芸を披露することで、父親の仇である人物を探し出そうとしたのだ。

この他にも様々な説があるものの、川の氾濫に悩まされてきたという土地柄と、角兵衛の仇討ちという背景を元にして、角兵衛獅子は江戸時代中期に始まったとされる場合が多い。

現在の月潟の街並み

なぜ角兵衛獅子は全国にファンを作れたのか?

角兵衛獅子は全国的にもかなり珍しい形態の獅子舞だ。お正月にショッピングセンターに登場して頭をパクパクと噛んでくれる獅子神楽系の獅子舞や、関東から東北地方にかけて見られる一人立ちの三匹獅子舞とも異なる。獅子神楽と三匹獅子舞が融合した上に、それが子どもによって演じられているというのが、角兵衛獅子を考えるうえで重要なポイントだ。

なぜ、このような獅子舞ができたのかというと、当時、江戸で伊勢太神楽などすでに大流行していた芸能があり、よほどの見所がないと見向きもしてもらえなかった。巡業して資金を得るには、まず「魅せる獅子舞」を作らなければならなかったのだ。

そこで、獅子神楽の一つである伊勢太神楽を基盤としつつも、それに三匹獅子舞の形態を取り入れ、さらに子どもに演じさせることによって、「これは見たことのない獅子舞だ!」と人気を獲得したとも言われている。

そして新潟から江戸へ、さらに関東地方、東北地方などへと、巡業地をどんどん広げていくことに成功した。観客が喜ぶ芸を考えた末にたどり着いた、創作性の高い獅子舞なのだ。

月潟郷土物産資料室に展示された、江戸時代の浮世絵にも描かれている角兵衛獅子

角兵衛獅子の衰退と復興

角兵衛獅子は芸の技術を高め続けた結果、明治時代以降には演者である子どもへの負担が大きいという声が徐々に上がるようになった。子どもを芸人として育て、至難の曲芸を身につけさせるというのは人体の極限を目指す行為であり、これらに対して社会的批判が出てきたのだ。

これには義務教育の整備や、法律に基本的人権が盛り込まれたこと、庶民生活が向上したことなど様々な社会的背景が関わっているといえる。また、サーカスなどの西欧文化が流入してきた影響もあるといえるだろう。ついに、角兵衛獅子は大正6年頃には消滅してしまった。

月潟資料館に展示された、昔の角兵衛獅子の様子

しかしその後、昭和8年には角兵衛獅子の衰退を惜しむ有志によって保存会ができ、復活することとなる。昭和初期といえば郷土教育が活発化しだした一方で、角兵衛獅子に対する見方も可哀想から可愛いに転換していった時期でもあった。復活には相当な苦労もあったようだが、地域の小学校の理解を得て担い手を確保することに成功した。

それから再び存在が全国規模で知られるようになる。昭和2~3年に発表された大仏次郎「鞍馬天狗」シリーズには角兵衛獅子が描かれ、昭和26年には歌手の美空ひばりが「角兵衛獅子の唄」を発表。昭和47年には天皇皇后両陛下の御前で演舞を披露するまでになった。

月潟まつりで復活した角兵衛獅子に出会う

毎年6月の第4日曜日に行われる「月潟まつり」は、正式名を「角兵衛地蔵尊祭」という。この祭りは、諸国を巡業行脚していた角兵衛獅子がこの期間だけは地元に帰り、角兵衛地蔵に1年間練磨した技を奉納して、その霊を慰めたことが始まりといわれている。

2022年も新潟県月潟の白山神社を拠点に行われると聞き、6月26日に現地を訪問した。復活した現代における角兵衛獅子はどのような様子なのだろうか?が一番の関心事である。数多くのカメラマン、地元メディア、観光客などもきており賑わっていた。

月潟太鼓などの演舞ののち、角兵衛獅子は午後3時から始まった。司会の方によれば「角兵衛獅子の担い手たちは、郷土芸能を伝え受け継ぐものとして、礼儀作法や言葉遣いに気をつけること、学校を休んで出演しないこと、お酒の出る席には出演しないことなどを条件に活動している」のだそうで安心した。厳しい指導はなく、子どもたちが一人一人役割を自覚しながらも、思い思いに楽しんでいるようだ。

演舞はフルバージョンで、舞い込み、金の鯱鉾(しゃちほこ)、かにの横ばい、乱菊、青海波、水車(みずぐるま)、俵転し、獅子頭をつけた水車、人馬(にんば)、唐子人形お馬乗りが行われた。
約30分の演舞で難易度の高い技が登場するたび、会場にパチパチパチパチと大きな拍手が沸き起こった。

角兵衛獅子というからには、胴幕を顔前に下ろして獅子舞の格好をしている場面もある。赤い胴体に小さくちょこんと乗った獅子頭だけが見えて印象的だ。一方で、動きが激しい技をするときには、赤い胴幕を頭にくくりつけて顔が見える形で行う。

遠目から見ると、会場の様子はこんな感じである。この技は「大井川の川越しの形」で、肩車をして両手を広げるというものだ。実際に昔の人は今の静岡県の大井川を渡る時、水量が多いので人足に頼んで肩車をしてもらい、川を渡った様子を模しているのだろう。

その他、人馬、唐子人形お馬乗りなどの大技を決め、角兵衛獅子の担い手たちは白山神社を後にした。手を振りながら退場する姿は、まさに地域の人気者そのもの。角兵衛獅子ファンも多いように思われた。また、後ろのテントでは、角兵衛獅子の人形やTシャツなどが置かれており、グッズも販売しているようだ。

角兵衛獅子は今でも大人気の芸能として、地域に根付いていることが確認できた。当日の演舞の動画は、私のYoutubeアカウントでも配信しているので、ぜひご覧いただきたい。

月潟郷土物産資料室で理解を深める

月潟まつりが行われた白山神社から歩いて15分くらいのところには、月潟農村環境改善センター内に設置された「月潟郷土物産資料室」という場所がある。庭に角兵衛獅子の演目と動きが表現された銅像があるのが目印だ。

こちらの施設では、角兵衛獅子の動画や衣装、道具の展示、歴史や史料の解説などが盛りだくさんだった。また、この資料室に併設する形で、角兵衛獅子の練習が行われている体育館もあった。
獅子頭の髪の毛は「白が雌で、黒が雄」とのこと。ちょっとしたことでも、スタッフの方に尋ねてみると、理解が深まるかもしれない。

角兵衛獅子についてより詳しく知りたい方は、ぜひこの資料室を訪れてみるのも良いだろう。月潟まつりの時期だけでなく1年を通して開館しており、無料で観覧することができる。

◾️月潟郷土物産資料室(月潟農村環境改善センター内)
【開館時間】9時~22時
【入館料】無料
【休館日】第3木曜、年末年始
※詳細は月潟農村環境改善センターの案内ページからご確認ください

角兵衛獅子の現代的な役割

ここまで見てきたように、角兵衛獅子は江戸時代に創意工夫のもとで、大人気の芸能となることに成功した。明治時代以降に社会的な背景から衰退せざるを得なくなったものの、それを惜しむ人々により保存会ができて復活。現在は地域内外にファンがいる活気ある芸能として、続けられている。

生活のために必要不可欠な芸能として生み出された一方、今では伝承することを重視し行われているのが現状だ。それでも長い間培ってきた伝統は、娯楽があまりにも多すぎる現代においてなお、その人気を維持し続ける原動力になっているようにも思える。角兵衛獅子を実際に見たいという方はぜひ、毎年6月に行われる月潟まつりを訪れていただきたい。

参考文献
小湊米吉『角兵衛獅子-その歴史を探る』(2000年9月)
元森 絵里子 論文『角兵衛獅子はいかにして「消滅」した-「近代的子ども観の誕生」の描き直しの一例として-』(2019年2月,明治学院大学 機関リポジトリより)

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この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
獅子舞マニアです。ライターやカメラマンをしています。趣味は、獅子舞の鼻を撮影することです。その他クレイジーな祭りにも潜入します。

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