祭りを訪ねると、その土地の暮らしが見えてくる。人が集う場、誰かが守ってきた役割、途絶えてもなお残る記憶、そしてもう一度祭りに向かう人の思い――祭りは、地域社会の変化と、人々の願いを静かに映し出している。少子高齢化、担い手不足、価値観の変化。それでも人はなぜ祭りを続け、時に途絶えた祭りを再び立ち上げようとするのか。各地の祭りを取材し続けるお祭りライター・小野和哉が、担い手たちの声を聞きながら、継承の現場にある葛藤と希望を見つめる。全3回の連載です。
継承問題を取材してきた2年間
株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスが運営する楽譜などの通販サイト「Sheet Music Store」。そこで筆者は、祭りの継承問題をテーマにした「それでも祭りは続く」という連載を2024年より持たせてもらっている。
「それでも祭りは続く」の掲載ページ(https://sheetmusic.jp.yamaha.com/より)
盆踊りの楽しさに目覚めた十数年前を機に、全国各地の祭りへ足を運ぶようになった私。祭りを通じて、東京にいるだけでは知り得なかった、日本各地に息づくユニークで多彩な文化に触れることができた。
翻って自分の地元は千葉県。子どもの頃は地域の祭りに参加する機会もほとんどなく、大学進学とともに上京した。だからこそ、地元に根ざして伝統を守り続ける人たちの生き様に、次第に強く惹かれるようになった。「なぜ、人々は祭りを必要とするのだろうか」、それが、「祭りの継承問題」を取材するようになった大きなきっかけだ。
とある祭りの神輿に飛び入りで参加する筆者
取材を通じて、祭りに参加するだけでは聞けなかった担い手たちの声に触れ、歴史をさかのぼる中で先人たちの思いに出会うこともできた。それは知的好奇心を満たしてくれるだけでなく、継承問題を多角的に考える視点も与えてくれた。
本連載の趣旨は、まさにこういった2年間にわたる取材で得た知見を3つのテーマに整理し、祭りの継承問題に関心をお持ちの読者の方々にお届けすることである。
第1回のテーマは、少子高齢化だけでは説明できない継承危機の要因だ。祭り休止の根本的な要因が少子高齢化にあることは、現場の人々の声からも裏付けられる。しかし詳しく見ていくと、地域や祭りごとに固有の事情があり、そこにいくつかの要因が複雑に絡み合って休止や廃絶を招いていることもわかってくる。
連載の中で訪問した祭りの一つ、向田の火祭り(石川県七尾市能登島)
今回は取材してきた祭りの中から3つの事例を取り上げ、「少子高齢化」という言葉だけでは括れない継承の課題を見ていきたい。
商店街の発展とともに拡大した盆踊り
白鳥おどりの模様。踊り子の奥に見えるのが、ヤグラ
最初に取り上げるのは、岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥(しろとり)町の盆踊り「白鳥おどり」だ。この祭りが直面する課題、それは祭りを運営面から支えてきた商店街の衰退である。
白鳥おどりは7月から9月にかけて、町内の複数の商店街で20数夜にわたって開催される。ヤグラに乗った三味線や太鼓など地方(じかた)の演奏に合わせ、老若男女が軽快なステップで踊るのが特徴だ。お盆の3日間は「徹夜おどり」と称し、夜8時から翌朝4時頃まで夜通し踊りが続く。
郡上の盆踊りといえば、日本三大盆踊りの一つに数えられる郡上市八幡町の「郡上おどり」が広く知られている。こちらもお盆の4日間にわたる「徹夜おどり」が有名で、白鳥おどりとは共通点も多い。しかし、町場で数夜にわたり、時に徹夜で踊るという祭りの形態は、郡上おどりが元祖である。
白鳥おどりとともに、郡上市を代表する盆踊りの一つ、郡上おどり
白鳥でも、昔より神社のお宮で楽器の演奏もなしに踊り手の生歌だけで踊るという素朴な盆踊りがあった。しかし戦後、近隣の「郡上おどり」の盛況ぶりに刺激を受けた地元有志により、1947年に保存会が設立され、ヤグラや鳴り物を取り入れた現代的なスタイルが確立された。
最初は町中の神社の境内で開催され、その後、駅前商店街へと盆踊りの会場は移された。いくつかの街道が交わる白鳥の町は明治以降、商業の中心地として発展していき、1933年に美濃白鳥駅が開業し駅前通が整備されると商店数もさらに増加。かつては芸者を抱える料理屋まであったという。
1960年代、高度経済成長とともに商店街が急成長。駅前商店街の若手グループが中心となり、他地域の成功事例(愛知県の一宮七夕まつり等)を参考に「きりこ祭り」などのイベントを企画し、白鳥おどりを、町全体を巻き込んだ一大催事へと成長させた。白鳥おどりの最盛期となるのは1970〜80年代。当時のスキーブームと連動し、踊りの輪が何重にもなり、町中が人で埋め尽くされるほどの活気を見せた。
1985年の徹夜おどりの様子 出典:白鳥踊り保存会五十年史
白鳥駅周辺の複数の商店街組合(現地では発展会と呼ぶ)が、各会工夫を凝らして盛り立ててきた白鳥おどり。しかし1980年代以降、コンビニの台頭や大型店舗の規制緩和により、祭りを支えてきた商店街にとって生き残りをかけた厳しい時代がはじまる。スキーブームの終焉や高速道路(東海北陸自動車道)の開通により、白鳥町が目的地ではなく「通過点」になってしまったことが観光面での打撃となったことも、商店街の衰退に拍車をかけた。
近年の美濃白鳥駅前の様子
実は私自身、長年の白鳥おどりのファンで、2014年からほぼ毎年参加している。その中で感じるのは、年々、会場となる商店街の「歯抜け」(店が閉まり更地となる空白)が目立ってきているということだ。商店主たちの高齢化も進み、踊り会場の設営や片付けなど、盆踊りの運営を担う人手も不足してきている。そのため、近年では自治会や有志ボランティアも運営に加わり、地域の祭りを守ろうと奮闘が続いている。
町の商業・観光の盛衰とともに歩んできた白鳥おどり。運営面での課題は山積しているが、祭りとなれば地元の若者を中心に今も多くの踊り子が自然と足を向ける。その求心力は健在だ。近年は「日本最速の盆踊り」というキャッチフレーズが口コミで広がり、郡上おどりに負けず劣らずの注目を集めるようになった。担い手の顔ぶれが変わりつつある今、この祭りが持つ集客力をいかに継承と結びつけるか、その戦略が問われている。
求められるのは神楽を演じる「場」の維持と確保
旧暦4月8日に開催される鵜鳥神社例大祭
祭りが行われる「場」の消失、それが継承の課題につながっている郷土芸能がある。それが、岩手県下閉伊郡普代村に伝わる「鵜鳥(うのとり)神楽」だ。
鵜鳥神楽は「廻り神楽」とも呼ばれ、漁民からの信仰が厚い鵜鳥神社の神霊を移した「権現様」と呼ばれる獅子頭をたずさえ、毎年1月から3月にかけて、数カ月をかけて三陸沿岸を巡行(じゅんぎょう)するという形態が特徴的な山伏神楽である。
集落を門打ち(家々を巡って祈祷をする)して回る神楽衆
門打ちの様子
鵜鳥神楽には現在、全53の演目が伝わっており、巡行先ではその中から選ばれた10種類ほどが2〜3時間にわたって披露される。勇壮な舞、神々しい舞に混じって、時には観衆の笑いを誘うコミカルな演目もあり、宗教儀礼という本質は軸にありつつ、娯楽の少ない時代には、純粋なエンタメとしても受容されていたという側面も見逃すことはできない。
岩長姫が鬼の面をした大蛇へと姿を変え、ヤマトタケルと戦いを演じる「日本武尊(やまとたける)」という演目。そのコミカルな攻防が笑いを誘う
巡行中、神楽は「神楽宿」と呼ばれる集落の有力者の家で演じられる。上演には広い間取りが必要なうえ、神楽衆への接待や宿泊の提供も求められるため、それなりの財力がなければ神楽宿は務まらない。一方で、神楽宿を引き受けることは神様を迎える名誉であり、同時に経済力や家格を示す機会でもあったはずだ。そうした誇りとメリットが、神楽宿という仕組みを支えてきたのだろう。
神楽の後、神楽宿の主人が神楽衆に食事をふるまう
しかし、近年ではそういった神楽衆を受け入れる神楽宿も少なくなっている。宿主(神楽宿を務める家主)の高齢化により、神楽衆を受け入れる余裕(労力や経済力の面から)が失われているのが大きな要因だろう。そのため一般の民家ではなく、地域の公民館を神楽宿として提供しているケースも近年では多い。また2011年の東日本大震災で神楽宿そのものが失われてしまったということも、廻り神楽の伝統継続に大きな影を落としている。
宿泊する神楽宿で稽古をする神楽衆
鵜鳥神楽の神楽衆は少数精鋭で士気も高く、最近は10代のメンバーも加入しており、しばらくは深刻な担い手不足に直面する状況ではなさそうだ。一方、当面の継承課題は、神楽宿という「場」をいかに維持・確保していくかにある。
「伝統芸能の保存」というとき、それは「芸」そのものの保存だけでなく、「芸能が演じられる場の保存」も含まれる。鵜鳥神楽は、そんな新たな視点を私たちに投げかけている。
「弔い」の変化が及ぼす盆踊りへの影響
最後に、人々の生活様式の変化が祭りの存続に影響を及ぼしているという事例を紹介したい。
盆踊りといえば「ご先祖を供養するための踊り」と連想する人も多いだろう。しかし実際には、先祖供養の要素が具体的な形として組み込まれている盆踊りはそう多くない。一方、瀬戸内海沿岸には、新盆(亡くなって初めて迎えるお盆)の故人の位牌や遺影を抱えて、あるいは背負って踊るという、供養色の強い盆踊りが伝わっている。広島県豊田郡大崎上島町も、そうした文化が残る地域の一つだ。島の中でも形態は地区ごとに少しずつ異なるが、木江地区の盆踊りでは、新盆を迎えた故人の遺影を木箱に納め、それを背負って踊る文化が残っている。
はじめに、会場に設営された祭壇には木箱入りの遺影が並べられ、人々が集まると式典が始まる。僧侶の読経の中、詰めかけた地域の人々が順番に焼香をする。
ヤグラの前に祭壇を作り、遺影の前で焼香を行う
式典が終わると、祭壇の遺影を下ろしてそれを遺族が背負う。そして、盆踊りがはじまる。
盆踊りの様子。中央の男性が遺影を背負って踊っている
子どもたちが遺影を背負う姿も愛らしい
遺影は順番に背負われていき、遺族だけでなく地域の人々も背負うことになる。親族のみならず、集落全体で故人を弔うという温かな姿勢が感じ取れる盆踊りだ。
しかし地元の人によると、近年は盆踊りで弔いを依頼する家庭が減ってきているという。保存会の会長によれば、その要因として考えられるのが「家族葬」の普及だ。
家族葬とは、家族や近親者のみで執り行う葬儀の形式である。参列者を広く招く「一般葬」と比べて規模が小さく、1990年代以降に広まった言葉とされる。参列者が少ない分、費用を抑えられ、喪主の肉体的・精神的な負担も軽減されるのがメリットだ。こうしたコンパクトな葬儀形式はコロナ禍以降さらに普及し、近年では通夜や告別式も省いた「直葬」も注目を集めている。
しかし古くをさかのぼれば、葬儀は集落の住民たちが担うものだった。葬儀業者には頼らず、故人の親族や知人が集まって道具を準備し、参列者にふるまう精進料理をつくり、土葬が一般的だった時代には墓穴を掘って遺体を埋める作業まで地域住民が行った。
「亡くなった人は地域で弔う」そういった意識が濃厚な時代があったからこそ、遺影を背負う盆踊りが成立し得たのだろう。「家族葬」が普及するなど、弔いの範囲が縮小化している現代に、そういった文化が衰退しつつあるというも無理からぬ話とも言える。
継承の課題は、地域の数だけある
以上、祭りの継承をめぐる3つの事例を見てきた。いずれの地域も、根底に少子高齢化という課題を抱えていることは間違いない。だが、商店街の衰退、神楽宿の減少、葬儀スタイルの変化など、地域固有の事情に目を向けると、継承問題へのアプローチもまた、地域によって少しずつ異なることがお分かりいただけたと思う。
さて次回は一転、一度その歴史に終止符を打ちながらも、その後復活を遂げた祭りの事例を紹介したい。祭りは、途絶えたからといって永遠に失われるわけではない。再興への確かな理由と、それを担う人々の思いがあれば、数十年の空白を経ても蘇ることができる、そのことを、実際の事例から示していきたいと思う。
【関連情報】※外部サイトに遷移します。
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https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-09
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