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昔の日本人もコスプレしてもっとはしゃいでた!?ハロウィンとお祭り文化の意外な共通点

更新日:2024/3/8 小野 和哉
昔の日本人もコスプレしてもっとはしゃいでた!?ハロウィンとお祭り文化の意外な共通点

(画像:shutterstock)

10月31日が近くなると、町のあちこちにカボチャのオレンジ色や、西洋風のお化けのモチーフがチラつくようになります。いつの間にか日本でも、ハロウィンが秋の風物詩として定着してきているようですね! さて、ハロウィンといえば、忘れちゃいけないお楽しみの1つが「仮装」です。

毎年ハロウィンの週末になると、渋谷にこぞってコスプレをした若者たちが殺到する…というのも恒例になってきました。「なんだ、あんな変な格好をして…」と眉をひそめる大人も多いかもしれませんが、いやいや、あなたのお父さんやおじいさん、さらにはご先祖さんたちも、お祭りの場で仮装をしてハメを外していたかもしれないんですよ!?

江戸時代の絵馬にも描かれた仮装踊りの様子

相川音頭絵馬 出典:佐渡市(https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/5136.html)

例えば、こちらの絵馬をご覧ください。佐渡市指定の民俗文化財である「相川音頭絵馬」は、相川地区相川江戸沢町の塩竃神社に奉納されたもの。「相川音頭」といえば、「佐渡おけさ」と並んで、佐渡を代表する民謡の一つですが、この絵馬では人々がさまざまな衣装に身を包んで輪踊りに興じている様子がありありと描き出されています。

裏書には「上法輪寺文政四辛巳年(1821)八朔前田郡次上」と書かれているようで、まさに江戸時代の盆踊りのリアルな光景と言えるかもしれませんね。

昭和6年発行『浅瀬石川郷土志』に綴りこまれた「明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)」とされる絵図の中にも、妖怪のような格好をして躍る人々の姿が描かれています。
(参考:yosareドットコム

仮装は、身分を隠したり、円滑な男女交際に効果を発揮した

庶民が仮装をして踊っていたという事実は、古い記録からもうかがい知ることができます。というか、その仮装が風紀を乱すと目されて取り締まられることもあったというくらい、盛んだったようです。

郡上おどり史編纂委員会『歴史で見る郡上おどり』によると、天保13年(1842)「御回状留日記」(河合家文書)には次のような記録が残されています。

「町在の者盆中寺社その外にて踊り候節男女子供に至るまで以来かふり物一切いたしますじく候 これまで中には異風姿盗にて踊候ものもこれあり哉に相聞こえ候 風俗を乱し候儀これ無き様急度不嗜旨この度 被仰出候(中略)右踊り見物まかり越居候者までもかふりものいたし面体をかくし候も急度致まじく候」

ほっかむりをして顔を隠したり、何かしらの「異風」な格好をして踊っていたようですね。

郡上おどりの開催地でもある郡上市八幡町に立つ銅像にも、ほっかむりをして踊る男女の姿が再現されている。

かぶりもので顔を隠して踊るというのは、盆踊りのスタイルとしては、昔からのスタンダードだったようです。そして興味深いことに、そこには何かエロチックな意味も込められていたようです。例えば、青年の性の目覚めについて描かれた、森鴎外の作品『ヰタ・セクスアリス』には、主人公が少年時代に見た盆踊りの光景として、次のような記述があります。

踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾(ずきん)で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼(ひゃくまなこ)というものを掛けている。(中略)大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。

通常、武士と町人、農民が同じ盆踊り会場で踊ることはなかったようですが、武士の子たちも顔を隠してこっそりと紛れ込んでいたのかもしれません。「百眼」というのは、厚紙の目の部分をくり抜いて紐で耳に引っ掛ける、簡易的な変装道具のようなものらしいです。目鬘(めかつら)、半面、にわか面などとも言うそう。

博多土産の「にわかせんぺい」のモチーフにもなってますね。 (画像:にわかせんぺい本舗 東雲堂)

「気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来る」という記述も、やはり「仮装」が関係しているようです。普段は公然と男女交際をするのが憚られても、盆踊りの夜は特別。お互いに顔を隠すことで、臆することなくお近づきになれるわけです。盆踊りにおいて「互いの素性がわからない」というのは結構重要な要素で、全国の踊り唄にも次のような歌詞が残っています。

盆の十五夜 闇ならよかろ お手を引いたり 引かれたり

月の明かりしかない盆の夜に(もちろん電灯もない時代の話です)、踊り子同士の顔が見えない状況で、意中の人の手をすっと引く、という当時の恋愛模様がうかがいしれますね。

死者の霊を出現させるため、仮装で亡者を擬態する

また、盆踊りにおける仮装は、自分の中に死者の魂など、神聖なものを宿すことを目的としている、という説もあります。昭和16年に刊行された小寺融吉『郷土舞踊と盆踊』の文章を紐解いてみましょう。

男子女装、女子男装、または男女を問はず異様の姿をすることは昔から行はれたが、これは前にも記す亡者出現に、暗示を得たのが始まりと思はれる。而して仮装は盆踊に限らず、祭禮にも屡々見受けるのは、神々の降臨、そのお供の出現に擬したもので、いはゆる仮装行列の起源になる

ここで小寺の指す「亡者出現」とは、秋田県羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊りのことを指します。

彦三(ひこさ)頭巾と呼ばれる頭巾を被って踊る幽玄な雰囲気が特徴の西馬音内盆踊り 画像:PhotoAC

「秋田の西馬音内の盆踊りは、昭和十六年を去る三百四十一年前の慶長五年に、戦場の露と消えた小野寺茂道の一族を慰める為に、その遺族が踊つたのが始まりと云ふ。(中略)ここの盆踊は最後になつて男女の踊子が彦三頭巾を冠るのが特色(中略)これは小野寺一族の亡者の姿を現はしたので、この姿の踊に依て亡者は昇天するのだと云つてゐる。即ち踊子は此の時、自分に亡者が乗りうつる事を意識する

「亡者踊り」と呼ばれる盆踊りは、西馬音内の他にもいくつか全国で見受けられるようです。例えば、愛媛県大洲市青島の盆踊りでは、8月14日に「赤穂四十七士」の装束でその年に亡くなった人の霊を慰める「亡者踊り」が演じられているそうです。

画像:大洲市(https://www.city.ozu.ehime.jp/site/bunkazai/0189.html)

また、「亡者」というわけではないと思うのですが、精霊のような存在に扮して踊るユニークな盆踊りが、福井県南越前町上野の盆踊りに今も伝えられています。

2016年に訪れた時の写真。後ろ姿ですみません。

「上野の盆踊り」では、頭に笠とほっかむりを被って、蓑を背負った「ミノムシ」という謎の男が、踊りの輪の中を徘徊しています。手には大きな棒を持ち、たまに踊り子たちに向かって「この線に沿って踊れー!」と、地面を棒でなぞりながら威嚇しています。「子供の頃はミノムシが怖かったなー」と漏らす地元の方もおり、どこかナマハゲのような来訪神を思わせます。ちなみに、周りの踊り子たちもキャラものの被り物をしたりと、思い思いの仮装を楽しんでいます。

仮装踊りの基本は男装・女装!?

ここまでいくつかの文献を引用してきましたが、男装や女装という部分に引っかかりませんでしたか?実は、昔の盆踊りの服装について調べてみると、必ずといっていいほど「男が女装し、女が男装した」という証言が出てきます。

下川耿史『盆踊り 乱交の民俗学』では、1521年(大永元年)における風流踊り(盆踊りの原型の一つ)の文書から、男性の踊り手たちが女性の着る小袖を腰巻き代わりにした、統一された姿で踊っていたことに着目しています。

「つまり男性の女装がより明確に形になってきている。男性が女装して踊るという点も、風流の風流たるゆえんとされるようになってきたのである」

「風流」とは何か?と『精選版 日本国語大辞典』を引くと、「美しく飾ること。数奇(すき)をこらすこと。意匠をこらすこと。華奢(きゃしゃ)。また、そのもの」という説明が出てきます。

下川はさらに、次のように結論づけています。

「男性の女装、女性の男装こそ、風流の根幹の精神であり、いわゆる婆娑羅(ばさら)などの原点でもあった」

この男装女装の文化は盆踊りに限りません。有名なところでは、青森ねぶた祭りでお囃子に合わせてぴょんぴょん跳ねている「ハネト」の格好も、実は女装なのです。青森ねぶた誌編纂委員会『青森ねぶた誌 増補版』から引用してみましょう。

「ハネトの衣装は浴衣に襷、オコシ(腰巻き)、しごき帯をつけ、頭には花笠、足には白足袋に草履というのが現味の基本的なものである。オコシをつけるということからして女装である。(中略)戦前のハネトの衣装は浴衣、襦袢、半纏などさまざまで、中には丹前下や暑い中ドテラ風なものを着た人もあった。中でも、黒い繻子の襟をつけた赤襦袢にオコシを付けて跳ねた人もいて、これは完全な女性の格好であった

また、青森ねぶたに今も伝わる仮装文化として「バケト」と呼ばれる人たちがいます。漢字で書くとおそらく「化け人」で、変装を凝らしたハネトのことを指します。

 

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先の『青森ねぶた誌 増補版』では、古老から聞いた話として、戦前にはむしろハネトよりもバケトの方が多かったという証言も紹介されています。

「舌切り雀とか、誰が見てもそのキャラクターがわかるものが多かった。中には、大江山の酒呑童子が赤鬼、青鬼を引き連れ、家のまえでねぶたを見学していた商家の若奥様を羽交い締めにし、さらっていくといったような悪ふざけをするバケトもいた。バケトは一般のハネトとは異なり、ねぶたの最前部で露払いのような役をしていた。

また、最も多いのが、男性が女性の長襦袢で女装したバケトである。顔を隠しているが毛ずねで出ていたのでわかったという」

仮装文化の原点とも言えそうな「男装女装」の風流精神が、その後の盆踊りや、ねぶた祭りといったものに引き継がれているということかもしれません。

いまも引き継がれる、盆踊りの「仮装」カルチャー

いろいろな文献を見ていくと、日本が近代化して以降は、この「仮装文化」がより多彩なものへと変化を遂げていった節が感じられます。象徴的なのが、1932年(昭和7)発刊『郷土芸能 上方 第20号』に記載された、大阪府大阪市泉佐野の盆踊りの描写。

「髪も七三、耳かくし等も交り衣装も支那服、ピエロのコスチューム、モーニングに山高、東西屋、猿廻り、坊主等々雑多のものが現はれてゐる」

どんな様子だったのか写真で見てみたくもありますが、もう現在のハロウィンや、コミケ会場のコスプレとほぼ変わらない状況だったといっても過言ではないでしょう。グッと時代は下りますが、昭和期の東京都中央区佃島の盆踊りの写真を見ると、近現代の仮装踊りの様子が見えてきます。

画像: 新里源治『 佃島の詩 』

画像: 新里源治『 佃島の詩 』

昔ほどの勢いはないのかもしれませんが、現在でも佃島の盆踊りには、この仮装踊りの文化が引き継がれています。

2017年の佃島の盆踊り。右側に三角頭巾をしたお化け?が

仮装踊りは決して廃れつつある古い文化というわけでもなく、わりと全国各地に「仮装コンクール」という形で、盛況に行われているという実態があります。

岐阜県郡上市白鳥町「変装踊りコンクール」の一幕。巨大なマシュマロマンが度肝を抜く

大昔の仮装踊りと、現代の仮装踊りを比較してみて感じるのは、以前のような身分を隠したり、色恋のきっかけにしたり、死者を降臨させるといった意味合いは薄れ、より純粋に「仮装」という行為を楽しんでいるという、人々の態度の変化です。

その理由は、先ほど引用した『郷土芸能 上方 第20号』の、徳島の阿波踊りについて説明した文章にヒントがあります。

「又た此踊りには異様異態な変装をして出るものもありそれが見物の興味を惹くのである。むかしはこの踊りの余興に『走り二輪加』といふのがあつて街路を走りながら滑稽な所作をして人を笑はしたのであろうが、今あるかどうかを知らない」

「見物」というフレーズがポイントです。つまり、ある時から「仮装」の目的というのが、より人に「見られる」ことを意識したものになっていったとは言えないでしょうか。「お祭り」が商業化され、地域活性のイベントとして発展していく中で、「踊る人」「見学人」の区別が明確化し、それによって、仮装が「人を楽しませる、その行為を楽しむもの」としての意味合いを強めていったのではないか、というのは私の仮説です。

あらためて現代のハロウィンのコスプレ文化について

そもそも、なぜハロウィンはコスプレをするようになったのか?まだ自分でもその歴史を把握していないのですが、イコールではないとはいえ、ハロウィンのコスプレ文化と、盆踊りの仮装踊り文化は、かなり多くの共通点を見出すことができそうです。

渋谷のハロウィン騒ぎと、お祭りの仮装文化を一緒にすることはできませんが、若者たちがコスプレをしてバカ騒ぎをしたり、その騒動を見たさに人が集まったり、騒ぎすぎて取り締まられたりしている様子、なにより「風流」の精神は通じるところがあるのではないのでしょうか。

大人たちは眉をひそめるかもしれませんが、少し大目にみてあげてもいいのかもしれませんよ。

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:[email protected]
Twitter:koi_dou
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