新潟県にゆかりのある戦国武将・上杉謙信。今年、2022年は上越市にて3年ぶりに「謙信公祭」が開催となります。
上杉謙信はどんな武将で、どんな縁があるのか?また「謙信公祭」で再現される武田信玄との川中島合戦とはどんなものだったのか?今回は、上杉謙信に関する書籍を刊行する歴史家・乃至政彦さんに、謙信が合戦で使用した陣形「車懸り」についてご説明いただきました。
謙信公祭と川中島合戦
大正15年(1926)から続けられている「謙信公祭」には、越後の戦国武将・上杉謙信の戦法である「車懸りの陣」が再現されている。
過去にその配置図を見せてもらったことがあるが、謙信を中心とする円陣隊形を動かすもので、かなり本格的に稼働しているようだ。参加した友人も川中島合戦で使われた車懸りとはどういうものかを臨場感高く考えさせてくれる例のないイベントだと述べていた。
ちなみに、わたしは「車懸り」を文献で検証して査読論文で新たな仮説を説き、『戦国の陣形』『戦う大名行列』に私見を紹介した。現在の研究では“車懸り研究”の筆頭を自負している。さて今回は史実の「車懸り」を説明したい。
なぜ上杉は黒色で武田軍は赤色なのか?
謙信公祭のみならず多くの川中島合戦イベントでは、上杉軍は黒色、武田軍は赤色の武装がとても見栄えがするように演出されている。
これは上杉謙信の先陣を司った柿崎景家が真っ黒になって突撃したというイメージと、武田信玄の先陣を司った飯富虎昌が兵士を赤備えで揃えていたという伝説があり、これを角川春樹監督が平成2年(1990)の映画「天と地と」で、上杉軍を黒、武田軍を赤に統一させ、「赤と黒のエクスタシー」というコピーで宣伝したのが由来である。
史実のかれらは、もっと不揃いな武装で、自分自身が戦いやすい格好をして戦場に赴いた。数千数万の人間が必ずしも万全でない状況で動員され、命懸けで入り乱れるのだから、兜を用意できない貧乏人、籠手が壊れて痛い目に遭う侍、敵味方の区別がつかないからと見逃されるラッキーな逃亡兵もいたに違いない。
さて、ここからは川中島合戦における車懸りについて言及しよう。
史実の車懸り
上杉謙信の車懸りは、円陣を組んでぐるぐると周りながら敵陣を連続攻撃して、ついには謙信の本隊が敵の本隊を直接攻撃するというイメージがあるのだが、これは江戸時代の一部軍学者が思いついた戦法で、実際にはこれと異なる運用がなされていた。
簡単に説明すると、家臣たちの諸隊をずんずんと突進させて、敵軍の全隊を足止めさせる。こうして強引に、本隊以外を徹底拘束する。そこへ謙信の本隊が、敵本隊へ襲い掛かる。
しかも謙信の本隊は、先頭に縦長の旗を持って二列の隊形で押し進む。かれらは敵軍に近づくとぱっと左右に開く。次に続く鉄炮隊がその背後に並んでいく。かれらも二列縦隊で行進しているのを、前へ倣えで、横並びに配置を改めていく。旗が場を離れて、鉄炮の銃撃が開始される。越後は大国なので、鉄炮も弾薬も豊富に揃えられた。だから、容赦のない銃撃が繰り返される。
こんな攻撃に耐えられる部隊は、この時代に存在しない。この猛攻で甲斐の武田信玄ですら、本隊が乱れた。そこへさらに弓矢が放たれる。本隊の崩壊が進む。すかさず5メートルほどもある長柄の鎗が一斉突進する。崩れた敵の本隊を元に戻させないためである。防御力を失って混乱したところへ、完全武装の謙信自身と騎馬隊が斬り込みを仕掛ける。狙うは、奥に控える総大将の命である。
当時の歩兵たちは、ドラマやゲームだと陣笠や腹巻の防具を当てて、それなりに身を守っているが、実のところそこまで武装を整えられた武将はほとんどいなかった。ゆえに謙信の車懸りをノーリスクで阻止できる大将は、存在しなかった。
謙信は、永禄4年(1561)9月10日の信濃川中島合戦で、車懸りの戦法を使い、武田信玄を追い詰めた。この戦いについて明確なことはあまりわかっていないが、上杉謙信が太刀をふるって敵兵と争ったことと、武田信玄が怪我を強いられたことは事実である。2人は一騎討ちを演じたともいうが、これについては定説がない。
海を越えた車懸り
その後、謙信は車懸りの威力に自信を得たのか、各地でこれを実用して敵軍を粉砕しようと試みている。敵軍はこれを恐れて、謙信との野戦を徹底回避した。
それでも謙信に車懸りを仕掛けられたら大変なので、武田信玄と北条氏康は、謙信と同種の軍隊編成を整備してこれに対抗しようとした。旗隊、鉄炮隊、弓隊、長柄隊、騎馬隊の五段隊形を常備して、その突進を食い止めるための編成を常用するようになったのである。
謙信死後、武田軍と北条軍は、謙信の車懸りを阻止するだけでなく、自分たちでも車懸りを運用しようと考え、試行錯誤を進めた。その後、明智(惟任)光秀、蒲生氏郷らもムーブメントに乗り、五段隊形の軍制を採用している。戦国末期の名将たちは第二、第三の謙信軍を作ろうとした。
そして豊臣秀吉による朝鮮出兵において、「車懸り」の進化系用兵が実用される。豊臣軍が謙信の車懸りそっくりの戦法を使って勝利を重ねた様子が、中国・朝鮮側の文献に記録されているのだ。
さすがに謙信のように総大将本人が突進するようなことはしなかったようだが、重装備の騎馬武者が敵軍の中枢に浸透して破壊する用兵は、圧倒的攻撃力があり、豊臣軍は陸上の野戦では連戦連勝し、途方もない快進撃を見せた。これに驚いた異国の将士らも、日本式の軍隊編成と用兵を研究している。朝鮮出兵後の江戸時代には、上杉家と武田家の用兵思想を折衷する軍隊編成が全国に公式化されていく。
こうして謙信の車懸りは、東アジア諸国に衝撃をもたらしただけでなく、徳川幕府の基準として採用されることになり、その基本デザインは幕末まで受け継がれている。この合戦模様を今に伝えるのが、新潟県の「謙信公祭」と山形県の「米沢上杉まつり」である。
特に謙信公祭では、謙信が実際に行なっていた出陣の儀式「武禘式(ぶていしき)」を再現する。ほかにない催しで、注目度は高い。さらに川中島合戦で活躍したという上杉武将15人と、これと戦った武田武将11人が一般公募で参加して、合戦祭りを盛り上げる(参陣武将の数は、密を避けるため例年より減員しているようである)。
なお、その配役には架空の女性や、江戸時代になってから定着した名乗りを得ている者もある。史実を重ね合わせるなら、この辺りは脳内補完が必要になるだろう。
川中島合戦で、かれら上杉武将たちは謙信とその旗本が直接攻撃を仕掛けられるよう、武田諸隊へ積極的に突撃して自ら足止め役を担った。「御屋形さま、ここは拙者に任せて先へ進まれよ」を実践したのである。その果敢さが真剣であったから、武田諸隊は信玄旗本を守りきれず、謙信の本陣乱入を許してしまったのだ。謙信公祭では、謙信だけでなく、配下の武将たちの武者ぶりも楽しむことができる。