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【連載】マツリを訪ねて見えたこと −−継承のリアルをめぐる−− <第2回>祭りの再生・復活はなぜ実現したのか

2026/7/22
2026/7/21
【連載】マツリを訪ねて見えたこと −−継承のリアルをめぐる−− <第2回>祭りの再生・復活はなぜ実現したのか

いま祭りの担い手たちはどういった危機に直面しているのか。そして、何を思って祭りの継承に取り組むのか。北は北海道から南は奄美群島まで、各地の祭りを取材し続けるお祭りライターの小野和哉が、担い手たちへの聞き取りを通じて見えてきた継承問題のリアルに迫ります。全3回の連載記事です。

一度休止となっても、祭りは終わりではない

近年、祭りや郷土芸能を取り巻く状況は厳しい。少子高齢化による担い手不足が慢性的な課題となる中、2020年には新型コロナウイルスの流行という追い打ちがかかった。2〜3年の休止を余儀なくされたことで、廃止を決めた地域も少なくない。復活を果たした地域でも、担い手不足に加え、経済状況の悪化や資材高騰による資金難が重くのしかかる。近年、祭りの価値が見直されつつある一方で、それを維持するためのリソースが追いついていないのが実情だ。

人口減少や経済の先行きがこれからも不透明な中、伝統の「守り方」だけでなく、「畳み方」を考えざるを得ない地域も多いのではないだろうか。しかし、一度途絶えたからといって永久に失われるとは限らない。やむを得ぬ事情で廃止となりながらも、何十年もの歳月を経て再び息を吹き返した祭りも存在する。そういった祭りは、なぜ復活を果たせたのだろうか。

今回の記事では、2年間の取材の中で出会った、廃止から劇的な復活を遂げた祭りの事例を2つ紹介したい。

 

新団体が伝統を受け継いだ「高橋の虫送り」

最初に紹介するのが、福島県会津箕郷町尾岐(おまた)地区に伝わる「高橋の虫送り」だ。

虫送りとは、農薬や殺虫剤のない時代、田畑を荒らす害虫を集落から追い出し、五穀豊穣や無病息災を祈願する風習のことである。「虫追い」「実盛(さねもり)送り」など地域によって名称は異なるが、かつては年中行事の一つとして全国各地の農村に見られた。形態としては、子どもたちが松明を持ったり、虫を封じ込めた神輿を担いで集落を練り歩いたり、というスタイルがよく見られる。最後には集落の外れまで行って、そこで盛大に焚き火をしたり、神輿を川に投げ入れたりして「虫を追い払った」ことにする。

南町田の虫送り(神奈川県横浜市)

野田の虫送り(千葉県袖ケ浦市)

長谷川の虫送り(千葉県木更津市)

高橋の虫送りは、「虫籠」と呼ばれる神輿を担いで集落を歩くタイプの虫送りだ。他地域の例に多く見られるように、やはりここでも地域の子どもたちが行事の主役となっている。かつては大人たちのサポートを受けながらも、子どもたちが虫籠の材料集めから、制作までを担っていた。共同作業を通じて社会性を養う、ある種の「通過儀礼」のようなものだったのかもしれない。


Cap:高橋の虫送りでは2つの地区からそれぞれ虫籠が出される。こちらは尾岐窪(おまたくぼ)地区の虫籠

冑(かぶと)地区の虫籠

虫籠を担ぐ前に、お寺で虫供養の祈祷が行われる

かつては屋台が出るほど賑わいを見せたが、近年は少子高齢化や担い手のモチベーション低下が重なり、低迷が続いていた。コロナ禍での2年間の休止を経て、2023年の実施を最後に、保存会はついに解散を決断。長い歴史に幕を閉じるはずだった高橋の虫送りだが、保存会メンバーの一人だった片山紀彦さんが、地元の人の了承を得て新たに「高橋の虫送りをつなぐ会」を立ち上げ。この行事を引き継ぐことを決めた。

高橋の虫送りをつなぐ会 代表の片山紀彦さん

神奈川県出身の片山さんが、高橋の虫送りが伝わる尾岐地区に妻の玲子さんと移り住んだのは十数年前のことだ。当初は虫送りについて何も知らなかったが、地域住民として少しずつ関わる中で、その魅力に引き込まれていった。

自然保護活動に長年携わってきた片山さん。その活動を通じて「いまある自然を大切にしない限り、人間社会の持続は難しい」という確信を深めてきた。その片山さんの目に、「虫送り」は自然への敬意を呼び起こし、先人たちの自然観を今に伝える行事として映った。「虫送りは、いまの時代こそ必要だ」。そういった思いが、片山さんを行動へと駆り立てた。

活動初年となる2024年は、従来通りの開催を見送り、高橋の虫送りに関する調査や虫籠を作る技術の記録、協力者の拡充など、復活に向けた基盤作りに注力した。実際に動き出してみると、活動は思わぬ広がりを見せた。地元小学校から「体験学習の場として虫送りに関わらせてほしい」という相談が寄せられたのだ。早速、体験学習を実施。小学生たちは、尾岐窪地区で20年近く一人で虫籠づくりを担ってきた地元の方へのインタビューや、虫籠づくりに欠かせない「藁ない」体験を行った。

Cap:藁ない体験の様子 提供:片山紀彦

完成した虫籠は、例年通り集落を練り歩くことこそなかったものの、地区内のお寺の参道で、子どもたちとともにデモンストレーション的に担がれ、従来通りの住職による祈祷も行われた。

完成した虫籠の展示イベントも開催された

そういった準備期間を経て、2025年7月、高橋の虫送りは復活を果たした。子どもからお年寄りまで多世代が集い、盛大に催された。実際にこの復活の場に立ち会った私は、多くの参加者や見学者の姿を目の当たりにして、「まだ、この行事を絶やす時ではない」という思いを強くした。

冑地区の虫籠を担ぐ大人たち

先端が尖った竹製の棒を手にして虫籠を先導する子どもたち。この祭具の意味は現代まで伝わっていない

最後に二つの虫籠を橋の上から落として、虫送りは終わる(環境保護の観点から、後で籠は回収される)

全国各地の「保存会」と呼ばれる継承団体の中には、結成から何十年もの歴史を持つ組織も増えてきている。消えゆく伝統を守り続けてきたその功績は大いに評価されるべきだが、新たに何かを始めることにも増して「何かを守ること」「何かを継続すること」が難しいのも理解できる。

決して簡単なことではないが、この高橋の虫送りの事例のように、思い切って組織を一新し、意思ある新たな担い手に伝統を委ねるという方法も有効なことなのかもしれない。

 

36年ぶりに復活した「田倉の三匹獅子」

高橋の虫送りはブランクとなる期間も短く、すみやかに復活できたケースとなるが、休止となってから数十年の歳月を経て復活した郷土芸能もある。続いて紹介する「田倉の三匹獅子」(茨城県つくば市)は、実に36年もの歳月を経て復活を果たした稀有なケースだ。

三匹獅子舞は、主に関東地方に広く分布する獅子舞の形態で、その名の通り、三匹の獅子が一組になって舞う。一匹の獅子を一人が担当するという点も、大きな特徴だ。

福島県会津若松市の「会津彼岸獅子」。三匹獅子舞の典型例

東京都町田市の「矢部八幡宮獅子舞」

以上が三匹獅子舞の基本的な性質だが、獅子頭の形態や舞の種類、公演時期、演じられる目的、登場キャラクターなど、地域ごとにそれぞれ独自の特色もある。

その点でいうと、田倉の三匹獅子の大きな特徴は、披露される機会が非常に限られていたことだ。多くの三匹獅子舞は年に1〜2回、定期的に演じられるのが一般的だが、田倉の三匹獅子は神社の遷宮や橋の渡り初め(道路や橋の開通に際して行われる式典)、官公庁舎の竣工記念など、特別な行事があった時のみ演じられてきた。それゆえに、地元の人でも獅子舞を見たことのある人は稀であったという。

復活後の田倉の三匹獅子

演じられる機会が少ないということは、下の世代が獅子舞を習い覚える機会も少なくなることを意味する。その特性ゆえに、将来的に継承を難しくする要因を、元より内包していた獅子舞であったといえよう。

復活前、田倉の三匹獅子が最後に演じられたのは、1985年に茨城県筑波郡谷田部町御幸が丘(現・つくば市御幸が丘)で開催された「国際科学技術博覧会」(以下、つくば科学万博)だった。茨城県が出展した「いばらきパビリオン」では、県内すべての市町村が日替わりで催事を行っており、田倉の三匹獅子は「豊里町の日」に町を代表する郷土芸能として出演した。現在、田倉三匹獅子保存会の会長を務める大塚誠さんは、「科学万博のビデオを見ると、笛が14〜15人もいるんですよ。おそらく茨城県なんかの要請もあって、(地元の)中学生が駆り出されたんじゃないかなあ」と回想する(大塚さんの父親は、当時保存会の会長を務めていたが、大塚さん自身は関与しておらず、当時の詳しい事情は把握されていない)。

これを最後に、田倉の三匹獅子が公の場で演じられることはなく、36年という歳月が過ぎた。つくば科学万博の時点ですでに活動が低迷していたという話もあるが、万博という晴れ舞台を経てなお休止に至った理由は、よくわかっていない。

田倉三匹獅子保存会会長の大塚誠さん

長い年月を経て田倉の三匹獅子が復活した背景には、3つの要因が偶然重なったことがある。経緯を簡単に追ってみたい。

2019年、地域活性化を目的に発足したつくば市の上郷市街地活性化協議会が、地域資源として三匹獅子の復活を検討し始めた(この上郷地区には三匹獅子が伝承されていた「田倉」集落も含まれている)。同じ頃、子どもの頃に舞を習った最後の世代のM氏も独自に復活を思い立ち、市へお囃子の音源を問い合わせていた。そんな折、現保存会長の大塚さんが自宅の納屋を整理中に、木箱に収められた獅子頭とつくば科学万博出演時のビデオテープを偶然発見。市に寄贈を申し出たところ、ちょうど復活の機運が高まっていたタイミングと重なり、話は一気に動いた。2021年3月、田倉八幡神社で36年ぶりの復活が実現した。

復活に際して、笛に加え、従来の三匹獅子になかった締め太鼓や大太鼓の導入をはかった

復活にあたっての課題は、獅子舞の再現だった。舞はつくば科学万博のステージを撮影した映像を参考にしたほか、当時の出演経験者の知見も借りることができた。笛は地元のお囃子団体の協力のもと、ビデオ映像の記録をもとに再現した。道具類はつくば科学万博の際にほとんどを新調していたため、そのまま使用できた。ただし獅子頭と太鼓は古いままだったため、復活初披露はそれで臨み、その後つくば市の支援を受けて獅子頭を新調した。

一度復活して終わりではなく、田倉の三匹獅子は現在も、地域のイベントや祭りなどを舞台に精力的に活動を続けている。

会場に入ってくる獅子舞のメンバーたち

なぜ、田倉の三匹獅子は復活できたのか。まず、獅子舞の復活を主導した上郷市街地活性化協議会は、つくば市の支援を受けて活動する地域づくり団体だ。行政のバックアップを受けやすい環境にあったことも、復活を後押しした大きな要因といえる。また、30年以上のブランクがあったとはいえ、経験者が存命であり、獅子頭などの用具やビデオ映像が残っていたことで、舞の再現が可能となった。

他の地域の獅子舞でも、祭りを廃止させる前に記念として録音しておいた笛のメロディーが、後の復活の際に役立ったという話を聞いたことがある。祭りに使う道具類や、映像・音声などの資料を後世に残しておくことの大切さを、こうした事例は改めて教えてくれる。

 

次の世代にバトンをわたす現代人の責任

祭りは一度休止となっても、それを心の底から望む者がいれば、いつか再開することができる。実は日本の祭りが苦難の局面を迎えたのはコロナ禍だけではない。過去には、太平洋戦争中にも、担い手となる若者たちの出征や、時世を鑑みた自粛などを理由に多くの祭りが休止となっている。あの時代こそ先の未来など見えず、祭りの再開など望むべくもなかったろうが、戦後間もなくして「復興祭り」「戦没者慰霊」などの名目で、多くの祭りが復活している。希望は未来に託してもいいのだ。

しかし、一度休止となった祭りを後々に再開することは、決して容易ではないということも、強調しておきたい。続けるにしても、休止するにしても、バトンを受け取る後世の人々のために今できることを深く考えること。それが、現代を生きる私たちに課せられた責務であろう。

【関連情報】※外部サイトに遷移します。
https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-04
https://sheetmusic.jp.yamaha.com/blogs/magazine/matsuri-06

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